1867人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ
「春金堂は昔のままの、悪しき取引がいまだに続いている。どうして今まで、あんなやり方が横行してきたのか不思議でならない」
少し前、課長がサンプル追加発注の件では珍しく引いたのにと、皆んなの怪訝な顔が並んだ。
どのくらいだろう、長い時間の沈黙が続き、課長がスクっと立ち上がると、皆んな、びくりと体が動いた。
「自分の担当の得意先に、ひとつでも多く仕入れて貰うように頭を下げてこい。のんでくれそうな所へは俺も後日一緒に交渉へ行く」
凄んだ目で皆んなを見回すと、命令に近い言い方。
そんな言い方では、皆んなの反感を買ってしまうよと思い、僕はハラハラとした。
「春金堂を切る、その分他社に仕入れを増やして貰う。『ふわぽわ』は絶対にヒットする。俺が保証する。信じて、安心して交渉しろ」
一瞬、皆んなが息を呑んだのが分かる。
そんなの、そんなの無茶だよ、って思って、課長が悪く思われてしまうのが心配で、僕は泣きそうになってしまった。
「部長に話を通さなくて良いのですか? 」
岡崎さんが課長に訊いた。
「あんな腰巾着に話を通したって、何もならん」
部長は、本部長の腰巾着と揶揄されているのは有名。
「責任は全部俺が取る」
えっ?
責任取るって?
そんなの、どう責任取るっていうの?
春金堂の穴を埋める責任なんて、課長一人に取れるのかと、僕はオロオロとするばかりで、皆んなの表情を窺った。
「ボケっとしてるなっ!早く出ろっ!」
どうしてそんなふうに言うの?
課長はそんな人じゃないのにと思い、胸が苦しくなるばかりの僕。
しんと静まりかえった部署内の沈黙を破るように、
「行ってきますっ!」
誰かが高々に声をあげると次々に、
「行ってきます!」
「行って参ります!」
と、意気込んで交渉に出かける部署の人たち。
出遅れてしまった僕が、一人部署に残された。
「いっ、行ってきますっ」
皆んなのような声は出せなかったけれど、僕なりに、よしっ、と思い、課長に頭を下げて、バッグを肩に背負った。
部署には僕と課長だけ。
「青坂、頼んだぞ。…… でも、無理はするな」
課長の言葉に胸が熱くなる。
課長のために、少しでも頑張りたい、力になりたいと思った。
唇を噛んで小さく頷くと、課長が小さく、小さく微笑んだ。
夕方、社へ戻ると半分くらいの人が戻ってきていた。
「どうだった? 」
そんな話しをしている。
春金堂の穴を埋めるにはほど遠いけれど、それでも仕入れの数を増やしてくれる得意先がいくつかあったみたいで、みんなで計算をしている。
僕はどこもだめで、課長の力になれないのが悔しかった。
「一回で諦めちゃだめだよ」
平林さんが、珍しく先輩らしいことを言ってくれた。
「…… はい、また明日も頑張ってみます」
「うん、一回でうまくいくなら、そんな簡単な仕事はないからね、俺も頑張ってくるよ」
「平林さんは? どうだったんですか? 」
「一社、全アイテム2カートンなら増やしていいって、言ってくれた」
「本当ですかっ!すごいっ!」
自分のことのように喜んだ。
わずかでも、そう言ってくれる会社が増えればなんとかなるかもしれない。
僕だって頑張ろうって、ますます思った。
「あ、岡崎くん、春金堂には返事したの? 」
「いや、まだするなって課長から言われてるから、保留のままです。断る話しをする時は、課長も同行すると言ってくれたので」
「でも、本気で春金堂を切るつもりなのかな? 課長」
平林さんがふと漏らした疑問に、皆んなの視線が集まる。
「どこかで毅然とした姿勢を見せなければ、この先もずっと理不尽な取引が続きますよ」
春金堂担当の岡崎さんが話したから、皆んなも深く共感しているようだった。
「明日、また頑張ろう」
パラパラと退勤する人たちを見送りながら、僕は課長を待っていた。
「課長、まだ帰ってこないな」
岡崎さんが心配そうに課長のデスクに目を遣っている。
僕だって心配だ。
外線電話が鳴り、岡崎さんが取ると「お疲れ様です。了解しました」と言っている。
「課長はまだ回るところがあるから、皆んなは帰るようにとの伝言です」
その言葉に、まだ部署に残っていた人も帰り支度を始め、僕も皆んなと同じように支度だけしてみる。
でもまだ、帰る気になんて到底なれない。
「帰らないの? 」
「あ、いえ、帰ります…… 」
平林さんが椅子から立ち上がり、僕に声をかけてきた。
「あっ!いけないっ!ひとつ、まとめておかなきゃいけない資料があったんだったっ!」
演技、下手くそすぎだったかな?
ちょっと顔が引きつりながら、平林さんに訴えるように言ってみた。
「明日でいいんじゃない? 」
「あ、でも…… 課長に怒られちゃうかもなので…… 」
「そっか、それは恐いな。あんまり遅くならないようにしなよ」
「はい、ありがとうございます、お疲れさまです」
「お疲れさま」
皆んなが帰って僕一人になった部署の部屋。
課長はどこでなにをしているんだろう。きっと、春金堂の穴埋めに走り回っているんだろうけれど。
どうなるんだろう。
心配と不安で思わず目を伏せたその時、ブッとスマホがメールを知らせた。
課長からで、メールの交換をしてから、これが最初に届いたメッセージ。
『悪い、今日は遅くなりそうだ。夕飯の準備ができそうにない、ごめんな』
そんな、僕の夕飯の心配をするなんて…… 込み上げてきた涙をこらえ、スマホをぎゅっと強く握りしめた。
『そんなこと気にしないでください。課長が帰って来るまで僕、待ってます』
そんなメッセージを送っている僕、課長への気持ちが段々と明確になってきている。
『何時になるか分からないから、先に帰っていなさい』
そのメッセージが切なかった。
それでもそうだよね、余計な心配はさせたくないと思う。家に帰っていた方が課長は安心するだろう。
『わかりました、では帰ります。お気をつけください。お疲れさまです』
そう送ると、
『気をつけて帰るんだぞ、ハニー』
と返ってきた。
………… ハニー。
ぼわっと、熱くなった顔はきっと真っ赤だ。
スマホの画面を胸に押し付け、隠すようにしてキョロキョロ周りを回した。
誰もいない、よかった。
最初のコメントを投稿しよう!