2021人が本棚に入れています
本棚に追加
/60ページ
地下鉄で五駅、駅と駅との間隔が短いから十分でマンションの最寄り駅に着く。
そのわずかな時間でも、僕はずっと課長からもらったメールを見つめていた。
『気をつけて帰るんだぞ、ハニー』
ハニー、ハニー、ハニー、
僕の頭の中で連呼されて、胸がとくとくとくと弾む。
『ありがとうございます』
って僕が送った文面は淡々として何でもないけれど、
『あしかもうごじらきす』
『ありがとうのばいだす』
なんて、動揺しまくって指が思うように動かず、危うくそんな文面を送るところだった。
『ありがとうございます』の十文字を送るのに、何度も打ち直して十分もかかってしまった。
晩御飯を買って帰ろうと、駅前のコンビニに寄った。
コンビニのお弁当を買うなんて久しぶりだな、とふと思う。
── こんなの食べたのか?
って、課長に怒られないかな?
少し不安になったけれど仕方ない、それでも野菜サラダと、『二分の一日分の野菜が摂れる!健康弁当』なんて書いてあるお弁当を手にして、
── これならまぁ、いいな
って言ってもらえるかな? なんて思って、少しふふっと笑みがこぼれた。
課長は晩御飯、どうするんだろう。
どこかで食べるのかな?
そうだ、ハニーなんてことや、お弁当のことを考えて浮かれている場合じゃない、今、第二営業部は大変なことになっているんだった。
思い出して、というか、思い出すなんて忘れていたのと同じ、課長に申し訳なくて項垂れながら部屋へ向かった。
この部屋に来てから、一人で食べたことは何度かある。でもその時だって、一旦戻ってきた課長が作った夕飯を食べていた。
だから、こんなに寂しくなかった。
「いただきます」
それでも、お弁当を前に手を合わせる。
── おぅ、よく噛んで食べるんだぞ
にっこにこの課長の笑顔と声が浮かんだ。
課長から連絡が来るかもしれない、スマホをテーブルに置いて食べる。テレビだってつける気にもならない。
今、課長はどうしているんだろう…… お弁当を食べる箸が進まない。
お風呂に入ろうと思っても、連絡が来るかもしれないと思うとどうにも落ち着かなくて、お湯だけ沸かしてリビングでぼーっとしていた。
もうすぐ、二十三時になる頃。
こんな時間まで、どこかの会社と話をしているわけはないと思った。
── 責任は全部俺が取る
課長が言った言葉が頭に浮かんだ。
もしもうまくいかなかった時、どうやって責任を取るっていうんだろう。
課長が会社を辞める、とかで済まされる問題でもないと思った。
損害分を賠償するとかなのかな?
そんなこと…… 考えただけで胸がズキっと痛んだ。
そう考えると、悪いことばかりが頭の中を駆け巡って、課長は今どうしているのかが気になって仕方がない。
『まだ帰れないんですか? 』
迷いに迷って、意を決してメールを送った。
『まだ起きてたのか? もうすぐ終わるから寝ていなさい』
すぐに返事が届いて、それはそれで安心したし嬉しかった。
『もうすぐ終わるのでしたら、待ってます』
それきりメールは途絶えてしまって、そのあとの返事が来ないことに途端に不安になる。
メールができないところにいるのかもしれない、運転中かもしれない、部屋の中をウロウロと歩き回るだけの僕。
そして、ガチャっと玄関が開いた音がして、僕は急いで走り寄った。
「おかえりなさいっ!」
「おぅ!起きてたのか? 」
それでも嬉しそうな顔をしてくれた課長に、僕はこの上ない安心と喜びを感じた。
「…… どうしたんですか? その大荷物」
帰ってきた課長は、両手に大きな紙袋を提げている。少し見えた紙袋の中身は、『ふわぽわ』の商品、ぬいぐるみや文具、雑貨なんかがいっぱいに入っていた。
「明日、朝イチで大阪に行ってくる」
「大阪? これを持ってですか? 」
「そうだ、新規開拓をしてくる」
ニカっと笑い、紙袋を置くと僕を見つめる。
ドキッとした。
「こ、こんなにたくさん…… か、関西支社にも…… しょ、商品はあるんじゃないですか? 」
ずっと見つめられて、僕は目が泳いでしまい、しどろもどろな話し方になってしまう。
「ああ、確認したら関西支社に現物はまだ数点しかないみたいでな、だから直接工場から持ってきたんだ」
視線を動かさないまま、じっと僕を見つめて話すから、目のやり場に困り、「あっ!」と手を叩いて場の空気を変えようと試みた。
「渚冬」
次の瞬間、僕の名を呼ぶと、課長がいきなり抱きしめてきた。
え?
宙に浮いたまま、僕の手が課長の背中の後ろで行き場を失っている。
左手を腰に回し、右手で僕の後頭部を優しく包み込み、耳元に課長の唇が触れそうになっているのが分かる。
どくどくどくどく…… 心臓が強く速く打ち始めた。
「よぉーっしっ! これで元気出たっ! 」
大きな声でそう言うと、抱きしめていた腕を解き、僕から離れ嬉しそうに紙袋を持ち上げている課長。
僕はといえば、抱きしめられて固まってしまい、宙に浮いたままの手がまだそのまま宙を探っている。
「ん? どうした渚冬。おお、神よ、みたいなポーズして、可愛いな」
なんでそうなるかな?
課長が抱きついてきたからじゃないか、頬がぷくっと膨れた。
…… というか、ハグ…… 激しく動揺。
「明日は羽田七時だから、ここを六時前には出る」
「は、早いですね、では早く休まないとですね」
「ああ」
隠せない動揺をなんとか誤魔化しながら、会話を続けた。
………… ちょっと待って。
明日の朝、僕が課長を起こすって、約束したんじゃなかったっけ?
最初のコメントを投稿しよう!