大きな変化の始まり

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地下鉄で五駅、駅と駅との間隔が短いから十分でマンションの最寄り駅に着く。 そのわずかな時間でも、僕はずっと課長からもらったメールを見つめていた。 『気をつけて帰るんだぞ、ハニー』 ハニー、ハニー、ハニー、 僕の頭の中で連呼されて、胸がとくとくとくと弾む。 『ありがとうございます』 って僕が送った文面は淡々として何でもないけれど、 『あしかもうごじらきす』 『ありがとうのばいだす』 なんて、動揺しまくって指が思うように動かず、危うくそんな文面を送るところだった。 『ありがとうございます』の十文字を送るのに、何度も打ち直して十分もかかってしまった。 晩御飯を買って帰ろうと、駅前のコンビニに寄った。 コンビニのお弁当を買うなんて久しぶりだな、とふと思う。 ── こんなの食べたのか? って、課長に怒られないかな? 少し不安になったけれど仕方ない、それでも野菜サラダと、『二分の一日分の野菜が摂れる!健康弁当』なんて書いてあるお弁当を手にして、 ── これならまぁ、いいな って言ってもらえるかな? なんて思って、少しふふっと笑みがこぼれた。 課長は晩御飯、どうするんだろう。 どこかで食べるのかな? そうだ、ハニーなんてことや、お弁当のことを考えて浮かれている場合じゃない、今、第二営業部は大変なことになっているんだった。 思い出して、というか、思い出すなんて忘れていたのと同じ、課長に申し訳なくて項垂れながら部屋へ向かった。 この部屋に来てから、一人で食べたことは何度かある。でもその時だって、一旦戻ってきた課長が作った夕飯を食べていた。 だから、こんなに寂しくなかった。 「いただきます」 それでも、お弁当を前に手を合わせる。 ── おぅ、よく噛んで食べるんだぞ にっこにこの課長の笑顔と声が浮かんだ。 課長から連絡が来るかもしれない、スマホをテーブルに置いて食べる。テレビだってつける気にもならない。 今、課長はどうしているんだろう…… お弁当を食べる箸が進まない。 お風呂に入ろうと思っても、連絡が来るかもしれないと思うとどうにも落ち着かなくて、お湯だけ沸かしてリビングでぼーっとしていた。 もうすぐ、二十三時になる頃。 こんな時間まで、どこかの会社と話をしているわけはないと思った。 ── 責任は全部俺が取る 課長が言った言葉が頭に浮かんだ。 もしもうまくいかなかった時、どうやって責任を取るっていうんだろう。 課長が会社を辞める、とかで済まされる問題でもないと思った。 損害分を賠償するとかなのかな? そんなこと…… 考えただけで胸がズキっと痛んだ。 そう考えると、悪いことばかりが頭の中を駆け巡って、課長は今どうしているのかが気になって仕方がない。 『まだ帰れないんですか? 』 迷いに迷って、意を決してメールを送った。 『まだ起きてたのか? もうすぐ終わるから寝ていなさい』 すぐに返事が届いて、それはそれで安心したし嬉しかった。 『もうすぐ終わるのでしたら、待ってます』 それきりメールは途絶えてしまって、そのあとの返事が来ないことに途端に不安になる。 メールができないところにいるのかもしれない、運転中かもしれない、部屋の中をウロウロと歩き回るだけの僕。 そして、ガチャっと玄関が開いた音がして、僕は急いで走り寄った。 「おかえりなさいっ!」 「おぅ!起きてたのか? 」 それでも嬉しそうな顔をしてくれた課長に、僕はこの上ない安心と喜びを感じた。 「…… どうしたんですか? その大荷物」 帰ってきた課長は、両手に大きな紙袋を提げている。少し見えた紙袋の中身は、『ふわぽわ』の商品、ぬいぐるみや文具、雑貨なんかがいっぱいに入っていた。 「明日、朝イチで大阪に行ってくる」 「大阪? これを持ってですか? 」 「そうだ、新規開拓をしてくる」 ニカっと笑い、紙袋を置くと僕を見つめる。 ドキッとした。 「こ、こんなにたくさん…… か、関西支社にも…… しょ、商品はあるんじゃないですか? 」 ずっと見つめられて、僕は目が泳いでしまい、しどろもどろな話し方になってしまう。 「ああ、確認したら関西支社に現物はまだ数点しかないみたいでな、だから直接工場から持ってきたんだ」 視線を動かさないまま、じっと僕を見つめて話すから、目のやり場に困り、「あっ!」と手を叩いて場の空気を変えようと試みた。 「渚冬」 次の瞬間、僕の名を呼ぶと、課長がいきなり抱きしめてきた。 え? 宙に浮いたまま、僕の手が課長の背中の後ろで行き場を失っている。 左手を腰に回し、右手で僕の後頭部を優しく包み込み、耳元に課長の唇が触れそうになっているのが分かる。 どくどくどくどく…… 心臓が強く速く打ち始めた。 「よぉーっしっ! これで元気出たっ! 」 大きな声でそう言うと、抱きしめていた腕を解き、僕から離れ嬉しそうに紙袋を持ち上げている課長。 僕はといえば、抱きしめられて固まってしまい、宙に浮いたままの手がまだそのまま宙を探っている。 「ん? どうした渚冬。おお、神よ、みたいなポーズして、可愛いな」 なんでそうなるかな? 課長が抱きついてきたからじゃないか、頬がぷくっと膨れた。 …… というか、ハグ…… 激しく動揺。 「明日は羽田七時だから、ここを六時前には出る」 「は、早いですね、では早く休まないとですね」 「ああ」 隠せない動揺をなんとか誤魔化しながら、会話を続けた。 ………… ちょっと待って。 明日の朝、僕が課長を起こすって、約束したんじゃなかったっけ?
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