謎が謎でなくなっていく

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謎が謎でなくなっていく

六時前に家を出るって、一体何時に起きるんだろう。 いつもの通りなら、二時間二十分前には起きている課長だから、三時四十分!? たぶん、それはないな。 明日は身支度をしたらすぐに出発するだろう、ってことは…… 五時? ころかな? 時計を見るともう、十二時を回っている。 早く寝ないと、明日、僕だって得意先を回って少しでも数字を上げるんだ。 ………… 眠れない。 四時五十分に目覚ましをセットした。スマホの他に、以前に使っていた目覚まし時計も引っ張り出して。 それに、抱きしめられた感触がまだ、体に残っている。 耳元に、課長の柔らかい唇が触れそうになった感覚が残っている。 ………… 眠れない。 明日、というかもう今日だけど、僕だって、絶対に納品の数を増やしてもらうんだ、気合いを入れないとっ。 ピピピピピッ! ブーブーブーブーッ! はっ! いけないっ!起きなきゃっ! よろよろバタバタとベッドから出て、遠くに置いたスマホや目覚ましを急いで止めた。 音に驚いて心臓がバクバクしている。 とりあえず、課長を起こしに行こう。 はっ! でも、五時半に起きるつもりだったのに、なんて言われたらどうしよう。 あと三十分眠れるよな。 いや、課長のことだ、身支度には時間をかけるはず、大丈夫だ、起こしに行こう。 僕の部屋と課長の部屋の間にバスルームがある。 そろそろと課長の部屋に向かうと、脱衣所の洗面台の前に課長が立っていた。 「渚冬? どうした? トイレか? あっちだぞ」 …… もう、起きてた。 「あ、あの…… 」 「どうした? どこか具合でも悪いのか!? 」 僕がこんな時間に起きるなんて驚きしかない課長が、髪を整えるのをやめて僕のそばに走り寄る。 両腕をさすったかと思うと、額に手を当て「熱でも出たか? 」と真剣な顔。 「だめだ、俺のおでこで実測十分だ。俺のおでこはどんな体温計より精密なんだ」 そんなことを言って僕の額に課長が自分の額を当てる。 どんな体温計より精密って、そこはツッコむところだろうけれど…… 。 ど、どうしよう…… 近い、顔が近すぎる。鼻先がくっつきそうだ。 いや、くっついている、唇まで…… 近づいて…… 「ね、熱はありませんっ、あのっ!」 もう、僕の心臓がもたない、たまらずに僕から額を離した。 「今朝は、僕が課長を起こす約束でした」 ちらちらと視線が泳ぎ、課長にそう言うと、固まってしまった課長。 「…… 課長?」 「そのために、こんなに早く? 」 「でも、間に合いませんでした、ごめんなさい」 課長の瞳がうるうるとし出して、またも僕をギュッと抱きしめる。 あ、まただ…… もう抱きしめるってことが普通になりつつあるな、と、今度は冷静な僕。 「なんていい子なんだ、渚冬はっ」 ぎゅ、ぎゅ、ぎゅーっと強く抱きしめるから苦しい。 「か、課長…… く、くるし…… 」 「あ、悪かったっ!つい嬉しくて力が入ってしまったっ!はっはっはっ!」 抱きしめたことも、鼻先がつくほどに額を寄せたことも、そんなことなんでもないような課長に少し胸がちくっとする。 僕は、なんでもなくない。 「いっ、いいですよ、朝食の支度なんて!」 出かける前に僕の朝食を作ろうとするから、慌てて止めた。 「早く出て駅前のコーヒー店で食べますから」 「昨夜だって、コンビニの弁当だっただろう? 」 ゴミ箱を見たんだろう課長が、口先を尖らせて不服そうに言った。 「そうですけど…… でも…… 」 「今朝は簡単なものになってしまうが…… 俺がしてやりたくてやってるんだ、やらせてくれ」 少し前なら、はぁ〜って、ため息が漏れていたかもしれない。 今は、そんなふうに言ってもらえて嬉しい自分がいる。 「まだ寝ていられるだろう。飛行機に乗る前に電話で起こしてやるから、寝るといい」 「僕が課長を起こす約束だったのに」 しゅんとして項垂れた。 「そのうちでいい、約束なしで起こしてくれ。明日かな、明日かなって毎晩寝る時の楽しみが増えるっ!」 満面の笑みで課長が僕の頭をわしゃわしゃと撫でる。 今、大変で、課長はこれから大阪へ新規開拓のために大荷物を持って出かけるっていうのに、僕はこんなほわほわした気持ちでいいのだろうかと、引け目を感じた。 「いってらっしゃいませ」 「うん、渚冬も気をつけて」 「僕、今日、絶対に、納品数を一点でも増やしてもらうように頑張ります」 「うん、ありがとうな」 柔らかく口角を上げて微笑む課長。 胸がキュッとした。 「あ、あのっ!」 「ん? 」 「今日は…… 今日は帰ってきますか? 」 大阪に行くんだ、泊まりかもしれないと思った。 「渚冬の顔が見たいから、帰ってくるさ」 またもキュキュッとした胸が、嬉しい痛みに感じる。 課長が作ってくれた朝食。 一人で食べるけど、今朝は寂しくない。
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