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なんということ。
プチさんの専務さんとお話ができて、なんと、納品数を1.5倍に増やしてくれるという。
ものすごく緊張してしまって、何を話せていたのかも覚えていない。
一緒に棚替えをしたスタッフさんが僕を大層褒めてくれて、話を後押ししてくれたということは覚えている。
「姪っ子は、あれでなかなか商売が上手いんだ。きっと悪いようにはならないだろう」
と、専務さんが笑っていたのも覚えている。
ああ、どうしよう、膝が震えている。
情けないな、課長にいち早く報告したいけど、いちいちいちいちうるさいよな。課長だって今、大事なところだろう、ぐっと堪えた。
「ただいま戻りました!」
あ、いけない、嬉しすぎてすごい大きな声を出してしまった。
「おっ、青坂くん、お帰り。その様子は、いいことあったな」
平林さんが、そんな僕を見て笑顔で迎えてくれる。
「プチさんが、納品数を1.5倍に増やすと言ってくれました!」
「本当に!? すごいな!」
岡崎さんも戻っていて、嬉しい驚きで顔を綻ばせてくれる。
すごいって言われて、ちょっと得意になってしまう僕。
だって、そんなふうに言ってもらえることなんて滅多にない。
「大朗報だよ、課長、卸問屋通さずに『グルニエ』さんと直接商談したみたいで、契約成立したって」
「えっ!? 課長から連絡があったんですか? 」
「もう帰ってきてるよ、本部長のところに行ってる」
「かっ、帰ってきてる!? 」
「そんな驚く? 」
もう帰ってきてるって、商談も成立させてって、それは驚くでしょう?
「皆んなが数字を増やしてくれて、課長がグルニエさんとの契約を取ってきてくれて、春金堂との取引がなくなっても数字は前より良くなってる、本当に感謝です」
岡崎さんが立ち上がって皆んなに頭を下げている。
うん、うん、と皆んなも達成感に満ちた表情。
「おつかれ」
ヌッと、課長が部署に戻ってきても、今日は皆んなビクリとしない。
「あ、課長!お疲れ様です!おめでとうございますっ!」
課長より遅く戻ってきた主任が、グルニエとの契約を知り、興奮した様子で課長に声をかけている。
「ああ、みんなもよくやってくれた」
それでもやっぱり表情を変えない課長で、
「さすがですっ!課長っ!」
続く主任の言葉に、
「ありがとう」
低く落ち着いた声でひと言そう言う。
皆んなが尊敬の眼差しで見つめている、僕の視線だってきらきらだ。
「青坂、プチさんに増やしてもらえたらしいな」
「はっ!はいっ!1.5倍に増やしていただけますっ!」
「おめでとう」
にこりともせずに僕を見て言う。
家とは全然違う課長だけれど、これはこれで、なんだかすごく嬉しい。
そのあとは何も話さない課長に、皆んな一瞬沈黙になり、気を取り直してデスクに向かった。
僕も、プチさんへ今後納める品物と数を確認するため書類を引っ張り出す。
ブッとスマホの振動。
ん? と思い伏せていたスマホを持ち上げた。
『渚冬、よかったな、ありがとう。今夜は『涼風』で乾杯しよう』
課長から。
仕事中なのにっ!と、驚きと嬉しさでバッと振り向いてしまう。
僕には目もくれず、いつも通り難しい顔でパソコンと睨めっこの課長。
あれ? 課長からだよな、もう一度スマホを見て確認した。
間違いない、課長からだ。
よくあんなふうに知らないふりで、仏頂面にしたままにできるなと、ある意味感心して僕の頬が緩んだ。
「グルニエさんの担当は岡崎、おまえだ」
「は、はいっ!」
「春金堂以上の取引になるからな、よろしく頼んだぞ」
「はいっ!」
岡崎さんが立ち上がって頭を下げた。
すごい、春金堂以上の取引だって、それを半日で決めてきた課長がすごい。
「青坂、ちょっと来い」
課長が立ち上がって部署を出ようとした時、僕を呼ぶ。
「は、はい」
ほんの少し驚いたような返事をしてしまったけれど、以前のように僕は恐くない、だって…… ね。
先をサッサか歩く課長が、またもトイレに入って行く。
最初の、寝癖を直してもらった時を思い出した。あの時はすっごい恐かったな、って思い返し笑ってしまう。
「早く来い」
ヒョイっと、あの時のように顔を出した。
ぱたぱたと急いでトイレに続いて入ると、課長がそっとまた顔を出し、右に左に首を振って周りの様子を窺っている。
「渚冬っ、えらいぞっ!よくやったな!」
僕の両腕やら頭やらを撫でまくる。
「は、はい…… ありがとうございます。でも、皆んなも頑張りました」
「そりゃそうだよ、皆んなにはすごく感謝している」
…… だったら、もう少しそんな顔をすればいいのに、とか思って少し可笑しい。
「家に帰るまで我慢しようと頑張っていたが、だめだ。渚冬に労いの言葉をかけてやりたくてムズムズしてたまらん。今夜は涼風で乾杯な」
「はい」
さっきメール見ました、承知していますよ。
「車はマンションに置いて、タクシーで行こう」
「はい」
その確認は、あとでもいいんじゃないかな?
「また、あじの南蛮漬けを食べるか? 」
「…… はい」
仕事に戻らなくてもいいのかな?
「豚の角煮が旨いんだ、この前は食べなかったよな? 今夜は食べよう」
「………… はい」
あとで…… いいよね。
「あ、の…… 課長」
「なんだ? 」
にっこにこの笑顔。
「仕事に戻ります…… 僕…… 」
「ああ!そうだった!いけない、いけない。今夜が楽しみすぎてつい、な。俺は用を足してから戻るから、先に戻っていなさい」
用を足すって、そこも最初と一緒だなと思い、吹き出しそうになる。
「ん? 」
「あ、いえ、なんでもありません」
「楽しみだ」
「はい」
部署に戻ると、平林さんに声をかけられる。
「青坂くん、明日休みだし、今夜皆んなでお祝いしようって話しになったんだけど、行くよね? 」
「え? あ…… 」
「課長も誘おうと思ってるんだ」
「あ、そう、なん、ですか…… 」
大きな取引も成立して厄介だった春金堂との取引も切れる、今日は本当にお祝いだ、誘われたら課長は断れないかもしれない。
そう思って、少し残念に思った。
二人でまた食事に行けると思ったのにな、って。
「あ、課長!今夜皆んなでお祝いをしようって話しになったんですが、課長もぜひ参加してください!」
トイレから戻った課長に、平林さんが勇敢にも声をかける。
会社での課長しか知らなかったら、僕はとても声なんかかけられない。
でも、なんて応えるのかな?
顔を伏せて、ドキドキとして、そわそわとして課長の言葉を待った。
「ああ、申し訳ない。今夜は先約があってね」
誘われた内容が内容だったからか、いつもより口調が優しい。
でもホッとしたし、すごく嬉しかった。
僕との約束を優先してくれた。
「そうですかーっ、残念です!」
平林さんが、本当に残念そうに項垂れ気味に声を出す。
「あ、ごめんなさい、僕も友達と約束があって…… 」
「えー? 課長の先約は分かるけど、なんで青坂くんが? 」
怪訝な顔の平林さん。
なんでよ、失礼にもほどがあるよと思って、頬がブーッとふくれたその時、感じた視線の先を辿ると、課長が僕を見てくすっと、忍び笑いをした。
絶対に見ることのできないだろう場所でそれを見ると、なんだかとても特別なものに思えて、僕はとくっと胸が弾んだ。
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