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「祝いの飲み会の足しにしてくれ」
終業時刻も過ぎ、皆んなが帰り支度を始めると課長が平林さんに茶封筒を渡した。
「え? そんなっ!とんでもないですっ!」
「皆んな、本当によくやってくれた」
視線を軽く部署の人たちに流しながら、落ち着いた口調で労いの言葉をかけている。
「ありがとうございます!皆んな、いただいたぞ」
課長から受け取った茶封筒両手に持ち、顔の高さくらいにまで上げて、周りに伝える平林さん。
「来週からまた気を引き締めて頼むぞ」
「「「はいっ!」」」
「週明け、グルニエさんの東京支社に挨拶に行く、岡崎、心づもりをしておけ」
「はいっ!」
「先に失礼する」
「「「お疲れさまでした!」」」
課長が部署を出ると、
「ええっ!!」
と平林さんの驚いた声に皆んな振り向いた。
「ごっ、五万円も入ってるよっ!」
茶封筒の中を見て、目を真ん丸くしている。
「青坂くん、友達との約束やめてこっちに来れば? 」
「あ、いえ、すみません…… 」
「もったいないな、今夜はご馳走だよ」
「あ、はい、残念ですが…… 」
すごいなー、どうする? どこ行く? と、軍資金が入った皆んなが嬉しそうに悩んでいる。
課長の株がますます上がっている、嬉しいような妬けるような、複雑な気持ちだけど口元が綻ぶ僕。
『涼風』さんには行きたい。女将さんの優しい笑顔に癒される。
料理だってすごく美味しい。いや、課長の料理だって負けないくらいに美味しいけど。
でも、課長とゆっくりマンションで過ごしたい、なんて思う自分がいる。
課長と二人で、今日のこの、素晴らしい一日の喜びを噛みしめたい。
僕が言ったら、課長はきっとそうしてくれると思う。
でもそれじゃあ、課長が食事の支度を始めるだろう。
── してやりたくてやってるんだ
そうかもしれないけれど、でも、家ではいつも僕のために忙しなく動く課長。
ゆっくりして欲しいって思う。
どうしたらいいのかな。
電車に揺られながら、そんなことを考えていたから、あっという間に駅に着いてしまう。
マンションのエントランスに入ると、応対中でない限り、フロントの人が頭を下げて迎えてくれる。
畏れ多くて僕は、一旦足を止めてお辞儀をしてしまう。
こういうところ、このマンションに住む人間としては不相応なんだろうと思う。
だって他の入居者さんたちは、すたすた颯爽と、自分の部屋に向かって行くのを僕は何度も見ている。そうじゃないにしても、軽く頭を下げる程度。
課長にしたって、なんで僕にあんなに世話を焼くのだろうって不思議に思う。
住み始めた最初の頃は、すごい住まいと会社では違いすぎる課長の振る舞いに、戸惑いばかりで疑問を持つ余裕もなかった。
課長の思惑に、まんまとハマった形になったけれど、それでも僕には何の不都合もない。度を越したような世話焼きだって、時には有り難いと思ったし、ここのところは、少し心地よさを感じていたりしている。
ポーンッ。
優しい音で21階の到着を知らせた。
課長は男で、僕も男だ。
今まで、好意を持ったのは異性。
高校生の時には付き合ったこともある、キスさえできなかったけれど。
大学生の時には、いいな、って思っていた子もいた。いいな、で終わってしまったけれど。
でも課長を思う気持ちは、今までの、その時に抱いた気持ちとは違うんだ。
全然、違うんだ。
世話をしてもらうばかりではなくて、僕だって課長のお世話をしたいと思う。
課長の喜ぶ顔が見たいと思う。
この気持ちがなんなのか、うまく説明できない。
胸が苦しいような切ないような、それでいてそわそわ、わくわくするような、言いようのない感情が胸の中を駆け巡っている。
「おかえりっ!少し遅かったな」
僕が帰って来たのが分かると、満面の笑みで玄関まで走ってきた課長。
「もしかして、やっぱり断れなくて、皆んなとのお祝いの方へ行ったのかと思って、そわそわしちゃったじゃないか」
あははは、と笑いながら、肩に背負っている僕のバッグを奪うと、背中に手を当てリビングへとリードする。
「そんな、課長と約束したんですから」
「渚冬も着替えて行くか? 」
そう訊いてきた課長はすでに着替えていて、カジュアルなテーラードジャケットを羽織り、中には胸元の開いた生成色のTシャツ、厚い胸板が容易に想像できる服装が僕の胸をドキドキとさせた。
「あの…… 」
「ん? 」
部屋でゆっくりしませんか? って言ったら、「いいぞ」って言って食事の支度を始めてしまうかな?
とりあえず食事は『涼風』さんに行って、なるべく早く帰る…… って、そんなの失礼か。
どうしよう、今は課長と二人きりで過ごしたい。
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