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秘密の関係
「田川、日本堂さん、横山、アスカさん、五十嵐、八千代文具さんとの時間を明日以降で作ってくれ。一緒に挨拶に行く。岡崎、あと十分で出るぞ」
デスクに座ったまま、名指しした人にギロッギロッギロッと視線を流した吟哉さんが、指示を出している。
── じゃあな、またあとでな
って、車から降りた僕に、弾ける笑顔で手を振ってから一時間も経っていない。
きょろきょろと周りを見回し、
「よし、誰もいない」
と、車を路地裏に停め、僕を降ろした。
「誰にも見つかるなよ」
僕たちの秘密の関係がバレないように、吟哉さんがウィンクをする。
秘密の関係が、よほど気に入ったみたいだ。
「青坂、プチさんとの時間を作っておいてくれ」
「はっ、はいっ!」
そうは言ってもこの状況は、やっぱり今でも気が引き締まって緊張する。
「行くぞ、岡崎」
「はいっ!」
颯爽と部署の部屋を出ていく吟哉さんの後ろ姿に、昨夜の逞しい美しい裸体が重なってドキッとした。
本当に嘘みたいで夢のようだ、吟哉さんとなんて。
「どうした? 赤い顔して」
平林さんに不思議そうに訊かれてしまって焦る。
「あ、いえ…… な、なんでもないです」
「まだはっきりした数字は出てないけど、これで第三営業部を抜かすのは間違いないだろうな」
「そうですね」
以前は、第一、第二、第三営業部と、その数字通りの成績だった。
第三営業部は三番目で一番悪かったのが、吟哉さんが着任したことで一番の成績に躍り出たため、僕ら第二営業部がドンケツになってしまった。
これで第三営業部を抜かすとなれば、第二営業部がトップの成績になる。
やった、思わず笑みがこぼれた。
「てことは、宇城課長は第一営業部に行くってことか? 」
そうだった。
── ここの成績も上げたら今度は第一営業部に行くって噂だよ
以前、平林さんが言っていたのを思い出す。
第一営業部はフロアが違う。ひとつ上の階になる。
異動してしまったら、会社で毎日は会えなくなるのかな、そう思って胸がきゅーっとする。
家では毎日顔を合わせるんだ、それくらい…… 大丈夫だ。
「なんか、寂しいよな。ついこの前まで、あまりの恐さに早く第一に行ってほしいって思ってたけどな」
平林さんがそんなことを言うから、ますます僕の胸はきゅっとして、何も言えずに黙り込んでしまう。
「どうした? 」
黙り込んでしまった僕を見る平林さん。
「い、え…… そうですね、寂しくなりますね」
「ま、課長が第一に行ってからも、俺たちは今以上の成績を出して抜かれないように頑張らないとな、って話だよな」
ははっと笑って、「じゃ、行ってきます」と平林さんも外回りに出かけた。
会社でも一緒だったとは言っても、外出していたことを考えたら離れていた時間だって長かった。大丈夫、寂しくなんかない、と自分の胸に言い聞かす。
「ピュアファクトリーでございます…… はい…… お世話になっております…… 少々、お待ちください」
外線電話が鳴り、電話をとった横山さんの声が最後の方は少し怪訝な声になっていたので思わず目がいった。
今日の予定が書かれているホワイトボードを見ながら、
「岡崎さん、課長と一緒に行ったのはグルニエさん、ですよね? 今日は春金堂に行く予定はないですよね? 」
「なに? 電話、春金堂から? 」
別の先輩社員が横山さんに声を掛けた。
「はい、岡崎さんが春金堂にいつ来るのかって」
「威張ってんの? 」
「そうでもないです」
「確認して折り返すって言っとけば? 」
「はい」
横山さんが、春金堂にそう話していったん電話を切っていた。
仕入れ値を下げなければ今後の取引はやめる、と一方的に言ってきた春金堂との取引を一切やめると吟哉さんが決めた。
切っても問題ないほどに皆んなが頑張って納品数を増やし、なんと言っても吟哉さんが大きなショップ、グルニエとの新規契約を取ってきた。春金堂との取引がなくなっても全く影響がない。
とはいえ、大きな会社の春金堂へそんな話をしに行くんだ。僕が行くわけじゃないのに、吟哉さんを思うと切なくなって胃が痛い。
きっと吟哉さんは平気なんだろうけれど。
横山さんが岡崎さんに連絡をとり、岡崎さんの方から春金堂へ連絡をするらしい。近くに吟哉さんもいるのかな? 横山さんが耳に当てている電話の向こうに思いを馳せた。
だめだな、僕、ずっと吟哉さんのことを考えてしまっている。
初めて繋がった日から毎晩愛し合っている。だから、朝も吟哉さんのベッドで迎えている僕。休みだったからだけど、今夜はどうするんだろうって、考えただけで股間が疼いてしまう僕。
僕が外回りから帰ってきても、岡崎さんと吟哉さんは戻っていなくて少ししょんぼりした。
「戻りましたー」
岡崎さんが帰ってきて、思わず嬉しそうな顔をドアへと向けてしまった。
「…… か、ちょう、は? 」
「ああ、まだ回るところがあるらしいから、俺だけ先に戻れって言われた」
「…… そうです、か」
「なに? どうした? 課長に何か用があった? 」
「あ、いえ、あ、はい、プチさんの件で…… 」
本当は何もない、でも何もないのにこんな僕はおかしいと思われる、咄嗟に誤魔化した。
「急ぎ? 」
「あ、いえ、そういうわけじゃないです」
「明日にすれば? 今日は直帰するかもしれないって言ってたぞ」
「…… そうですか」
俯いてため息を漏らしてしまった僕を、怪訝な顔で覗き込む岡崎さん。
ハッと思い、急いで笑顔にした。
「そ、そうですね!明日にします!」
秘密の関係にしようと、いい案が浮かんだと、自画自賛をしていた僕なのに、こんなにはっきり態度に出してしまってはだめじゃないかと、自分を戒めた。
そうは思っても、吟哉さんのことばかりを考えてしまう。
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