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今までなら帰ることに関して、特に連絡を取り合うこともなかった。
帰宅に関してのやり取りといえば、
『夕飯の準備ができそうにない、ごめんな』
と、そんなメールをもらって、
『待ってます』
『何時になるか分からない、先に帰っていなさい』
くらい。
そもそも、メールの交換をしたのだって少し前のことだ。
パラパラと帰る人たちを見送り、数人になってしまった部署内。
今日やるべき仕事はもうない、これ以上部署にいたら変に思われるかもしれないと思い、吟哉さんを待つのは諦めて僕は帰ることにした。
『先に帰ります。吟哉さん、お気をつけください』
会社を出る前にメールを送った。
なんか、恋人同士みたいだなって、そうなんだけど、改めて思ってちょっと胸がくすぐったかった。
すぐに着信、吟哉さんから。
「もしもしっっ!渚冬っ!」
すごい勢いの声だ。
周りに聞こえてしまいそうで、少し焦ってきょろきょろした。
「も、もしもし、お疲れさまです」
「もうすぐで帰るからっ!もうすぐだっ、まもなくだっ!」
「だ、大丈夫、ですよ…… あの、気をつけてくださいね」
『先に帰ります』と送った僕のメールは、そんなに吟哉さんを焦らせてしまうことだったかな? と眉が下がった。
「今、どこだっ!? 」
「え? あ、会社を出るところです」
「ああーっ!あと十五分くらいで着くんだ、待っててくれないか? 」
「十五分待っているあいだに家につきますから、慌てないでください、帰ります」
「なんでそんなことを言うんだ? ほら、朝、車を降りた近くに喫茶店があっただろう? そこで待っていてくれ」
「…… え? は、はい」
十五分あれば家に着くけれど、仕方ない、吟哉さんの言うとおり喫茶店で待つことにした。
会社のすぐそばにある喫茶店、初めて入る。
ずいぶん昔からあるような、時代を感じさせる店内。オープン当初ははいからなお店だったに違いない、そんなところに東京を感じさせた。
注文したアイスコーヒがテーブルに置かれ、ストローに口をつけてまもなく、ブッとスマホがメールを知らせる振動をさせた。
『店前に車を停めて待っている』
えぇ? 吟哉さんはお店に来ないのか。
急いでアイスコーヒを一気に飲み干し、店を出るためバタバタと会計を済ませる。
「ご馳走さまでした」
入って待つまでもなかったような慌ただしさが申し訳なくて、お店の人に頭を下げた。
「お、お疲れさまでした…… 」
「ああ、早く乗りなさい」
「あ、すみません…… 」
きょろきょろと周りを見ている吟哉さん。
「大丈夫だ、誰にも見られていない」
ぼそっとひとり言のように言い、僕のバッグをまた後部座席へと移してくれると、すぐに車を走らせた。
「吟哉さんも喫茶店に来るのかと思ってました」
「そんなことをしたら、喫茶店の店員に何を吹聴されるか分からないだろう」
小声で僕に言う。
え?
だったら、僕は一人電車で帰っていれば、周りなんて気にせずそれで済むことだったよね。
ああそうか、秘密の関係がそんなにもお気に召したのか。
吹き出しそうになるのを必死にこらえた。
「な、楽しいな」
僕が吹き出しそうになっているのを、秘密の関係を同じように楽しんでいるのだと思っている吟哉さん。
本当に可愛くて魅力的で、僕の心をぐんぐんと奪っていく。
マンションの部屋に着いたとたん、靴も脱がずに僕に口づけた。
「ん…… ん」
甘い、とろけそうな、濃厚なキスに力が抜けてしまい、肩からバッグがするりと落ちてドスっと音を立てる。
もう何度目になるか分からないキス。吟哉さんの舌を受け入れるのだって、ほんの少しはぎこちなさもなくなった。
「ん、はぁ…… ん…… 」
くちゅくちゅと互いの唾液が交じり合う音のあいだに、漏れてしまう吐息声が恥ずかしかったけれど無意識に出てしまう。
「渚冬…… 今日一日…… シたくて…… たまらなかった」
キスをしながら、唇を離した隙でそんなことを言う。
そんなそぶり、一ミリもなかった。いつもの冷静沈着で恐い課長、そう言われてキスですでに大きくなってしまった股間がヒクヒクする。
「吟哉さん…… ぼ、くも…… 」
吟哉さんの首に腕を回し、少しでも近づきたくて背伸びをした。
「風呂に入ろう」
熱いキス攻めが終わり、不意に言われた言葉に(?)となる。
吟哉さんのことだから、このままベッドに行くのだろうと思っていたから。
「さぁ、早く」
僕のバッグと自分のバッグをひょいっと持ち上げ、顔を綻ばせて誘導する。
バッグを廊下に置いたまま
「さぁさぁ、入ろうっ」
と、やけに浮かれている。
「あれ? どうしたんですか? 」
「さっき買ってきた」
バスルームに、色違いでお揃いのバスチェアが置いてある。
「あ、さっきと言っても、ちゃんと就業時刻を過ぎてからだからな、買いに行ったのは」
それで遅くなったの?
でも、仕事中に買いに行ったのではないと訴える吟哉さんがやっぱり可愛い。誰も責めていないのに。
「洗いっこしような」
あっという間に全裸になって、バスルームへ足を踏み入れる吟哉さん。
逞しくて美しい身体に、はしゃいだ子どもみたいな台詞、それはもう反則だよと思って僕だって思いきり顔が綻んだ。
この夜の食事は、珍しくデリバリーをとった。
二人してのぼせてしまったから。
僕より重症みたいな吟哉さんが、リビングのソファーで真っ赤な顔して倒れている。
こんな吟哉さんは初めてだ。
はしゃぎすぎ。
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