謎のはじまり

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「どうした? 車に酔ったか? 」 青ざめている僕に気付き、宇城課長が運転をしながらチラチラと僕の方を見る。 「あ、いえ、大丈夫、で…… す」 スーッと道路の端に車を寄せ、ハザードランプをつけて停まった。 「いや、大丈夫じゃないだろう、顔色が悪い」 僕の肩に手を置き、顔を覗き込む。 近い、すごく近い…… そして綺麗な顔、憂いを帯びた瞳で僕を見る。 どうして? やめて。 誰もが恐がる宇城鬼課長なのに…… ある意味、今だってすごく恐いけど。 「窓を開けよう、外の空気を吸うんだ」 スーッと、今度は静かに窓が降りて爽やかな風が入り込んできた。 僕の心は爽やかではないけれど。 「あ、の…… あの…… 僕のことは、その…… 青坂、でお願い、し、ます…… 」 勇気を振り絞って言った。 だって、『渚冬』って、絶対変じゃん。 「どうして? 」 僕の顔を覗き込んだまま、悲しそうな顔で課長が訊く。 どうして? って、僕がどうしてって訊きたい。 もう泣きそうになってしまって、耐えられなくて車から飛び出した。 すぐにブホン、と柔らかいドアが閉まる音がしたかと思うと、僕の前に立ちはだかる宇城課長。 は、速い。 「何か気を悪くさせたか? 」 気を悪く、というか…… もう、無理です僕、と思い、ただ項垂れる。 「…… 分かった、渚冬と呼ぶのはやめるよ、渚冬」 呼んでるじゃん。 「もう俺は何も喋らないから、とりあえず仕事に戻ってくれ、渚冬」 また呼んでるじゃん。 背中に手を当てられ、課長の車に誘導され、また車に乗り込んだ。 わけが分からなすぎて、頭に血がのぼってしまいそうなほどに項垂れたまま、ショップへ向かった。 「あら、宇城さん」 プチカリーナのスタッフさんが、僕たちを見つけると走り寄ってきた。僕たち、と言うより宇城課長を見つけたから、みたいだ。 頬を赤らめ、課長に見惚れている女性スタッフさん。 「お世話になっております」 静かに頭を下げ、落ち着いた声で挨拶をしている課長がすごくかっこいいのは確か。お客さんだって課長に見惚れていた。 先日の棚替えの件を課長が「出すぎた真似を致しました」と丁寧に謝罪すると、スタッフさんが後ろに立っている僕に首を伸ばした。 「す、すみません…… でした」 今、僕はここに来るまでのことで動揺しまくっていて、そういう意味で泣きそうになりながら謝罪をしたのだけれど、 「ごめんなさいね、逆に申し訳なかったわね」 と、僕の気落ちしている様子に、スタッフさんがひどく恐縮しているようだった。 「どうですか? 何か不都合なことはございませんか? 」 「何もないですよ、青坂さんはよくやってくれますもの」 課長の問いに感心したように、女性スタッフさんは答えてくれたけれど、僕は顔がピクピクと引きつりっぱなしだった。 このあとはどこへ行くんだろう、また車に乗るんだよな、気が重くて仕方がない。 でも、 ── 何も喋らないから と言った言葉をきちんと守り、何も喋らなかった宇城課長で、かと言って不機嫌そうじゃない。むしろ、悄気ている様子に見えたのは気のせいか。 それはそれでなんだか、居心地が悪くて仕方なかった。 車のエンジン音も静かだし、車内がシンとしている。 お腹が鳴ってしまわないかとか、唾を飲み込む音なんかが聞こえてしまいそうでハラハラした。 「お疲れ」 社の駐車場に戻り車から降りると、渋い声でそう声をかけられただけ。 「お、お疲れさま…… でした」 深く深くお辞儀をして、遠ざかっていく少し寂しそうな課長の背中を見送る。 なんとなく、気が咎めた。 「おかえり〜」 晴己の部屋に居候をさせてもらってから、かれこれ半月も過ぎる頃。 スマホでゲームをしながら、帰ってきた僕に晴己が声を掛ける。 「うん…… 」 晴己は何も言わないけれど、日に日に肩身が狭くなってきていた。 「どうした〜? 」 落ちているような僕の声が分かったのか、スマホから目を離さずに問いかける。 「いや、なんでもない。晴己は夕飯食べた? 」 「ああ、渚冬は? まだ? 」 「いや、駅前で食べてきた」 なんとなく、ゴミを出してしまうのもどうかな? と思ってもきて、外で済ませた。 あとはお風呂に入って、寝るだけなんだけれど、居候の身では先にお風呂をいただくわけにはいかない。 ゲームに夢中になっている晴己の様子を窺った。 「…… 晴己、お風呂、は? 」 「先に入っていいよ〜」 そういうわけにはいかない。 「晴己、先に入ってよ」 「だめ、今やめられない」 スマホを持つ手の動きがすごい。 ゲームが佳境なんだろう、リビングの隅にショルダーバッグを置いた。 僕は、リビングにあるソファーで寝かせてもらっている。結構大きなソファーで、寝心地は悪くない。 晴己はお風呂に入ると、リビングに接した寝室に入っていき、ようやく僕の時間ができる感じ。 住まわせてもらってるのに、そんなふうに思うなんて厚かましい。 早く、住むところを決めなくてはと、焦るばかりの僕。 築年数がかなり経っていて、郊外に近い都内ならなんとかありそうだった。でも、あんまり古い物件も、ちょっとやだしな。 東京は無理かぁ。 ふぅ、とため息が漏れた。 気が落ちたついでにか、課長に『渚冬』と呼ばれたことを、寂しそうな背中を思い出してしまう。 でも、部署に戻ってからはいつもの鬼課長だったし。 …… なんだろうな。 今度は、ふぅぅーっと、深くため息を吐いた。
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