2352人が本棚に入れています
本棚に追加
「どうした? 車に酔ったか? 」
青ざめている僕に気付き、宇城課長が運転をしながらチラチラと僕の方を見る。
「あ、いえ、大丈夫、で…… す」
スーッと道路の端に車を寄せ、ハザードランプをつけて停まった。
「いや、大丈夫じゃないだろう、顔色が悪い」
僕の肩に手を置き、顔を覗き込む。
近い、すごく近い…… そして綺麗な顔、憂いを帯びた瞳で僕を見る。
どうして? やめて。
誰もが恐がる宇城鬼課長なのに…… ある意味、今だってすごく恐いけど。
「窓を開けよう、外の空気を吸うんだ」
スーッと、今度は静かに窓が降りて爽やかな風が入り込んできた。
僕の心は爽やかではないけれど。
「あ、の…… あの…… 僕のことは、その…… 青坂、でお願い、し、ます…… 」
勇気を振り絞って言った。
だって、『渚冬』って、絶対変じゃん。
「どうして? 」
僕の顔を覗き込んだまま、悲しそうな顔で課長が訊く。
どうして? って、僕がどうしてって訊きたい。
もう泣きそうになってしまって、耐えられなくて車から飛び出した。
すぐにブホン、と柔らかいドアが閉まる音がしたかと思うと、僕の前に立ちはだかる宇城課長。
は、速い。
「何か気を悪くさせたか? 」
気を悪く、というか…… もう、無理です僕、と思い、ただ項垂れる。
「…… 分かった、渚冬と呼ぶのはやめるよ、渚冬」
呼んでるじゃん。
「もう俺は何も喋らないから、とりあえず仕事に戻ってくれ、渚冬」
また呼んでるじゃん。
背中に手を当てられ、課長の車に誘導され、また車に乗り込んだ。
わけが分からなすぎて、頭に血がのぼってしまいそうなほどに項垂れたまま、ショップへ向かった。
「あら、宇城さん」
プチカリーナのスタッフさんが、僕たちを見つけると走り寄ってきた。僕たち、と言うより宇城課長を見つけたから、みたいだ。
頬を赤らめ、課長に見惚れている女性スタッフさん。
「お世話になっております」
静かに頭を下げ、落ち着いた声で挨拶をしている課長がすごくかっこいいのは確か。お客さんだって課長に見惚れていた。
先日の棚替えの件を課長が「出すぎた真似を致しました」と丁寧に謝罪すると、スタッフさんが後ろに立っている僕に首を伸ばした。
「す、すみません…… でした」
今、僕はここに来るまでのことで動揺しまくっていて、そういう意味で泣きそうになりながら謝罪をしたのだけれど、
「ごめんなさいね、逆に申し訳なかったわね」
と、僕の気落ちしている様子に、スタッフさんがひどく恐縮しているようだった。
「どうですか? 何か不都合なことはございませんか? 」
「何もないですよ、青坂さんはよくやってくれますもの」
課長の問いに感心したように、女性スタッフさんは答えてくれたけれど、僕は顔がピクピクと引きつりっぱなしだった。
このあとはどこへ行くんだろう、また車に乗るんだよな、気が重くて仕方がない。
でも、
── 何も喋らないから
と言った言葉をきちんと守り、何も喋らなかった宇城課長で、かと言って不機嫌そうじゃない。むしろ、悄気ている様子に見えたのは気のせいか。
それはそれでなんだか、居心地が悪くて仕方なかった。
車のエンジン音も静かだし、車内がシンとしている。
お腹が鳴ってしまわないかとか、唾を飲み込む音なんかが聞こえてしまいそうでハラハラした。
「お疲れ」
社の駐車場に戻り車から降りると、渋い声でそう声をかけられただけ。
「お、お疲れさま…… でした」
深く深くお辞儀をして、遠ざかっていく少し寂しそうな課長の背中を見送る。
なんとなく、気が咎めた。
「おかえり〜」
晴己の部屋に居候をさせてもらってから、かれこれ半月も過ぎる頃。
スマホでゲームをしながら、帰ってきた僕に晴己が声を掛ける。
「うん…… 」
晴己は何も言わないけれど、日に日に肩身が狭くなってきていた。
「どうした〜? 」
落ちているような僕の声が分かったのか、スマホから目を離さずに問いかける。
「いや、なんでもない。晴己は夕飯食べた? 」
「ああ、渚冬は? まだ? 」
「いや、駅前で食べてきた」
なんとなく、ゴミを出してしまうのもどうかな? と思ってもきて、外で済ませた。
あとはお風呂に入って、寝るだけなんだけれど、居候の身では先にお風呂をいただくわけにはいかない。
ゲームに夢中になっている晴己の様子を窺った。
「…… 晴己、お風呂、は? 」
「先に入っていいよ〜」
そういうわけにはいかない。
「晴己、先に入ってよ」
「だめ、今やめられない」
スマホを持つ手の動きがすごい。
ゲームが佳境なんだろう、リビングの隅にショルダーバッグを置いた。
僕は、リビングにあるソファーで寝かせてもらっている。結構大きなソファーで、寝心地は悪くない。
晴己はお風呂に入ると、リビングに接した寝室に入っていき、ようやく僕の時間ができる感じ。
住まわせてもらってるのに、そんなふうに思うなんて厚かましい。
早く、住むところを決めなくてはと、焦るばかりの僕。
築年数がかなり経っていて、郊外に近い都内ならなんとかありそうだった。でも、あんまり古い物件も、ちょっとやだしな。
東京は無理かぁ。
ふぅ、とため息が漏れた。
気が落ちたついでにか、課長に『渚冬』と呼ばれたことを、寂しそうな背中を思い出してしまう。
でも、部署に戻ってからはいつもの鬼課長だったし。
…… なんだろうな。
今度は、ふぅぅーっと、深くため息を吐いた。
最初のコメントを投稿しよう!