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2-4
十二月二十五日。クリスマス当日。
この日、秋那は朝から鏡の前に立っていた。
前日のクリスマスイヴ。別れ際に「明日も遊びに行こう」と真宙から誘われていた。真宙と遊びに行きたいわけではないが、それでも秋那は少しでも多くの時間を真宙と共有する必要がある。そのため考えるまでもなく二つ返事で了承した。
そして待ち合わせの一時間前。身支度を整えた秋那は、最後にチョコレートコスモスの香水を自身にふりかける。
甘い匂いが鼻腔をくすぐる。自分はもちろん、姉の桜良も好んでつけようとしなかった香水の香り。
「……これで気づいてくれれば良かったんだけどね……」
鏡に映る自分の顔を見る。
「似てるなぁ……やっぱり……」
顔つきも、肌の色も、髪型も、そこに映る自分の顔は本当に桜良にそっくりだ。その事実は秋那にとってはとても嬉しいことだ。
いつだって桜良の真似をしていたし、桜良のようになりたいと思っていたし、誰よりも近くで、誰よりも多くの時間を桜良と共に過ごした自信がある。いつも周りから言われていた「双子のようだ」という言葉は、秋那にとって最上級の誉め言葉だった。
でも今は、今だけは、その誇らしさが足枷になっている。
真宙は秋那のことを桜良として接している。いくら否定しても真宙は秋那のことを桜良と呼ぶ。顔も髪も声も、そのほとんどがそっくりだし、本来なら間違えられるのは嬉しいことだ。でも真宙にだけは、自分のことを桜良だと呼んでほしくない。
「そんなに、お姉ちゃんのこと好きなんだ……」
秋那と両親を除けば、間違いなく桜良のことを一番好きなのは真宙だろう。でもだからこそ、真宙は桜良の影を秋那に見ている。秋那と真宙には、常に桜良の幻影が付きまとっている。
「…………殺さなきゃ。だってあたしは……死神なんだから……」
鏡に映る自分にそう宣言し、秋那はコートを羽織って部屋から出た。
階段を下りて玄関で靴を履き替える。すると背後に気配を感じて振り向いた。そこには顔色が明らかに悪い母親の姿があった。
「……秋那。…………準備は、進んでる?」
「……うん。大丈夫。身辺整理は、少しずつやってるから。……それまでに、やりきるから……」
小さく呟いた最後の一言は、母親には届かなかったようだ。靴を履き替えて立ち上がると母親は一瞬だけ秋那へ手を伸ばし、
「……気を付けてね。……本当に、気を付けてね」
震える手を戻しながら言った。
「……うん。大丈夫だから。……行ってきます」
両親には申し訳ないことをしていると思う。だがこれは必要なことだ。秋那がやらなくてはいけないことだ。
(もう、時間がないんだ……)
もう一度、母親の顔を見たら決意が鈍りそうで、秋那は振り返らずにそれだけ言って家を出た。
今日の待ち合わせ場所は真宙からの指定だ。その場所はどうやら、真宙と桜良が学校へ向かうためにいつも待ち合わせをしていた場所らしい。歩いて十分ほどの距離のその場所へ、桜良の影を探しつつ秋那は歩いた。
そして十分ほど感傷に浸りながら歩いていたせいか少し時間がかかってしまったが、それでも待ち合わせの十分前には到着した。
「――あ、おはよう、桜良」
だというのに、真宙はすでに待っていた。
いったいどのくらい待っていたのだろうか。鼻の頭は赤くなりとても寒そうだ。
「おはようございます、先輩。遅れてすみません。あと、あたしはお姉ちゃんではなく妹の秋那です」
「全然遅れてないよ。僕が早く来たんだ」
真宙は秋那の最後の言葉を当然のように無視して腕時計を見る。
「楽しみだったんだ、桜良とのデート。なにせ三か月ぶりだから。昨日はほら、突然だったから色々準備もなかったしさ」
「デートじゃありません。あと、あたしは秋那です」
「それじゃ、行こうか」
相変わらず都合の悪いことは耳に届いていないようで、真宙は秋那の手をとると歩き出した。
秋那としても真宙と時間を共有することが出来れば、どこへ行くかはあまり問題ではないし、特に行き先のプランを考えているわけではないので、引かれるがままに真宙についていく。
(まあ、欲を言えば落ち着いて話が出来る場所がいいけど……)
目的は真宙と遊ぶことではなく、きっちり話をすることだ。それにはあまり騒がしくなく、できれば身体をあまり動かさないような場所が望ましい。
移動中も真宙は秋那の隣を歩き、事あるごとに「桜良」と呼ぶ。そのたびに秋那も否定し、いい加減ウンザリし始めたところで真宙は足を止めた。
「ここって……」
そこは秋那にとっても見覚えのある場所。桜良のお気に入りの喫茶店だった。
「入ろう」
手を引かれ秋那も喫茶店に入る。
店内は外のクリスマスムードとは隔絶された空間であるみたいに、落ち着いた大人の雰囲気が漂っている。
店のマスターである初老の男性の低く渋い「いらっしゃいませ」の声が懐かしい。
(最後に来たのは……お姉ちゃんと一緒に来たんだっけ)
そのときのことを思い出しながら店内を見回していると、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
真宙について空いている席に、真宙の対面へと秋那は腰を下ろす。
「僕はコーヒーを。桜良は?」
「だからあたしは秋那です。……あ、あたしも、コーヒー……で……」
「コーヒー? いつもは紅茶なのに」
「……いいじゃないですか。コーヒーを飲みたいんです」
この店には桜良がいなくなってから初めて来店した。それまではよく桜良と来ていたため、いつも決まって注文していたものがある。だが秋那はそれをあえて注文せず、真宙と同じコーヒーを注文する。
真宙の言葉に店のカウンター越しにマスターが頷く。それを見た真宙が、
「それともう一つ。クリスマスの限定ケーキをお願いします」
「ケーキ?」
「うん。昨日と今日はクリスマスの限定ケーキを食べられるんだ。ほら、桜良は甘いもの好きだろ?」
確かに桜良は甘いものが好きだった。特にここのケーキは店を訪れるたび紅茶と一緒に毎回注文していた。それを見ていた秋那も桜良のことを真似て紅茶とケーキを食べているうちに桜良にも負けない甘党になった。
だからこそ、行きつけだった店の限定ケーキと聞けば食べたい気持ちが膨れ上がってくる。
「どうしても桜良と一緒に食べたかったんだ」
真宙は秋那の目の前でそう言って笑う。秋那は無意識のうちに緩んでいた頬の筋肉を引き締めて真宙を見返した。
「……すみません、先輩。あたし、甘いもの苦手なんですよ」
正直、限定ケーキは凄く惜しい。だがここで、真宙の目の前で桜良と同じようにケーキに瞳を輝かせて頬張るわけにはいかない。
(きっともう二度と食べられない……。でも、でも……っ)
断腸の思いとはまさにこのことかもしれない。食べることができないと思うと余計に食べたくなってしまうが、ここは我慢するしかなかった。どうしても、真宙の前で桜良の好きな甘いケーキを食べることは出来ない。
「それよりも先輩。あたし、先輩と話したいことがあるんです」
未練を断ち切るようにして秋那は本題を投げかける。その真剣な眼差しに、真宙は笑みを浮かべたまま言い返す。
「僕も桜良と話したいことがあるんだ。たくさん、たくさん」
「そうですか、それは良かったです。でもきっと、先輩の話はあたしのしたい話とは違うと思います」
「違うことなんてないよ。いつもみたいに、今まで通りに、他人から見たらどうでもいいような話をしたい。桜良と話しているだけで、僕はとても楽しいんだ」
「生憎ですが、あたしは先輩と世間話をしていてもちっとも楽しくないので、そんなお話は遠慮します」
喫茶店とケーキに少しだけ動揺したが、会話の主導権を真宙に渡してはいけない。そうなってしまったらきっと、真宙は帰ってこなくなる。だからまともに真宙の話に付き合ってはいけない。
常に自分が、自分の言いたいことだけを真宙に伝えなくてはいけない。
「あたしのしたい話は先輩のしたい話とは違いますし、するつもりもありません。いいですか、粕谷先輩。何度も、何度だって言います。あたしの名前は秋那です。お姉ちゃんじゃ、桜良じゃないんです」
そう。何度だって言う。何度だって言わなくてはいけない。
それが唯一、秋那が真宙にしてやれることで、秋那が真宙にしなくてはいけないことなのだから。
「よく聞いてください、先輩。お姉ちゃんは、もう――」
「お待たせいたしました」
桜良はもういない。この二日間でどれだけその言葉を口にしただろう。そして今も、しつこいくらいにもう一度告げようとした矢先、店のマスターがコーヒーとケーキを運んできた。
無視して話を進めるわけにもいかず、秋那も一旦口を閉じて目の前にコーヒーが置かれるのを待った。
真っ黒で苦々しい色をした(実際、味もそうなのだが)ブラックコーヒーがテーブルの上に置かれる。秋那は桜良の真似をするうちに甘党になったが、だからといって元々苦いコーヒーが飲めたわけではない。甘党になっていようがなっていなかろうが、きっとブラックコーヒーなんて飲む機会はなかっただろう。
「……」
たかが黒い液体。されど、コーヒー。
まったくの初めてというわけでは当然ない。だが、初めてではなくコーヒーのあの苦さを体験したことがあるからこそ、秋那はその味を思い出し身体を硬直させた。仕方がなかったとはいえ、果たしてこれを飲むことができるのだろうか……。
「……大丈夫?」
「……ヨユーです……」
嘘だ。すでに口の中は記憶の中のコーヒーの苦み(三割増し)が支配している。口をつけるどころか手を伸ばすことすら躊躇われた。
「でもほら、ケーキは凄い美味しそうだよ」
真宙の言葉に逃げるようにコーヒーから目を外し、限定ケーキへと視線を向ける。
そこにはコーヒーとはまさに対極の存在である甘さの塊のような、見ているだけで幸せになれそうなケーキがある。しかもただのケーキではない。行きつけで、美味しいことがよくわかっているお店の、クリスマス限定のケーキだ。期待値などすでに限界突破している。
「喜んでくれたみたいで良かった」
「――っ!」
真宙がとても嬉しそうに笑った。それを見て秋那は我に返る。
(いけない。ダメだダメだ……っ)
本当なら今すぐにでもフォークを掴んでケーキを口に運びたい。だがテーブルの下で両の拳を握りしめ、奥歯が痛むほどに噛み締めて、ケーキの皿を真宙のほうへと押した。
「…………さっきも言いましたけど、先輩。あたし、甘いもの苦手なんです。だからこのケーキ、申し訳ありませんけど食べられません」
そして伸ばした手で自身の前のコーヒーカップを手にし、吸い込まれそうなほどに黒い液体を口に含む。
「……っ!?」
瞬間、目が覚めるような強烈な苦みが口の中はおろか脳髄までも支配した。
今すぐ吐き出したい。目の前の甘い甘いケーキを貪りたい。涙目になっているのが自分でもわかる。
だがそれはできない。口の中のコーヒーを気合で胃へと流し込むと、
「お砂糖たっぷりの紅茶も、生クリームたくさんの限定ケーキも、美味しそうだとは思います。でも、あたしは苦手なんです。――お姉ちゃんとは違って……」
言って、トドメとばかりにコーヒーをもう一口。
「……っ」
一口目よりはマシだが、いや、すでに口内が麻痺しただけかもしれないが、それでもとてつもなく苦いことに変わりはない。その苦みに耐えて、秋那は続ける。
「……だからそのケーキ、先輩が食べてください」
そう、桜良なら絶対に言わないであろう言葉を口にする。
言葉だけじゃない。態度でも「自分は桜良ではない」と真宙に伝えるために。
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