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二学期の最終日。全校生徒が体育館で行われた終業式を終え教室に戻ってくる。それぞれが自分の席に座るが、彼ら彼女らからはすでに浮ついた空気が発せられ、それが教室に充満していた。
いや、教室だけではない。生徒全体からこの空気は発せられ、校舎の隅々まで包んでいる。それもそのはずで、今日は二学期の終わりの終業式というだけではない。十二月二十四日、クリスマスイヴ。高校二年生の、高校生の彼らにとっては、どうしたって盛り上がって浮ついた気持ちになってしまうイベントだ。
そんな中で担任の教師が明日から冬休みを迎える生徒たちへ向け、諸々の注意事項を述べているが、当然のように誰も聞く耳をもってなどいなかった。
そしてそれは、教室の隅で冬の空を見上げる粕谷真宙の耳にも届いてはいない。
担任教師が小さく溜息を吐く。これ以上、口うるさく行っても効果は薄いと判断したのだろう。最後に「ハメを外しすぎないようにな」と一言告げて教室を出て行った。
ピシャリと、担任が去ったあとのドアが閉まる。すると全てのしがらみから解放された獣のように、クラスを喧騒が包んだ。
そんな解放感と、特大イベントへの期待に満ち満ちているクラスメイトの中、真宙だけはじっと窓の外を見続けていた。
「……ねぇ」
真宙は体勢を変えないまま、視線を動かすことなく続ける。
「今日は、クリスマスイヴだよね。……どこに行こうか。行きたい場所、ある?」
視線の先の空へ……いや、視界の中で微笑む一人の少女に向けて真宙は言った。
「――…………――」
真宙の目に映る少女は微笑みを崩さない。ただじっと、真宙へと笑みを向け続ける。
「…………っ」
答えはない。
本当ならすぐにでも返ってくるはずの言葉がない。その事実が真宙の胸を締め付ける。
「真宙!」
制服の胸元を無意識のうちに握りしめていると名前を呼ばれた。
その声に視線を向けると、一組の男女が真宙の隣に立っていた。
「御調……。古賀……」
「なに一人で窓の外を眺めて黄昏てんだよ! 明日から冬休みだぜ? もっと楽しそうな顔しろって」
『みつき』と呼ばれた少年、飯塚御調は、冬の寒さも吹き飛ばすような快活な笑顔を真宙に向ける。そしてその一歩後ろから、こちらもよく知る少女、古賀和花が躊躇いがちな表情を浮かべて真宙を見ていた。
「それに今日はクリスマスイヴだぜ? これから三人でクリパでもやんねぇ? な、古賀もいいよな?」
「うん、もちろん。楽しそう。粕谷くんは……」
御調と和花は中学時代からの友人だ。休日に遊びに行くことも多く、みんなで集まってクリスマスパーティを開いて盛り上がったことが何度もある。
言い出しっぺの御調の口調から察するに、特に計画もなくその場の思い付きでの提案の可能性が高い。しかし二人は気の知れた友人だ。だから例えそうだったとしても十分にクリスマスを楽しむことは出来るだろう。
「…………何言ってるんだ、僕は行かないって」
しかし真宙は彼らの提案を断る。そして机の横に引っかけてある通学カバンからマフラーを取り出し首に巻きながら立ち上がる。
「……なんだよ、なにか用事か……?」
「…………っ」
視界の隅で和花が息を呑んだのがわかった。
しかし真宙はそれに気づかないフリをして、言う。
「なにって、今日はクリスマスイヴだよ? ――……デートだよ」
もう一度窓の外に視線を向ける。だがそこにはもう、先程まで見えていた少女の姿はなかった。
「……先に行っちゃったのかな。……早く追いつかないと」
「あ、おいっ、真宙!」
静止する友人の声を無視して真宙は教室を出ると、そのまま解放感と浮ついた空気の蔓延する廊下を速足で歩いていく。
明日からなにをしようか、これから彼氏とデートなんだ、今日中に彼女を見つけてみせるぜ、一緒に初詣に行こう。
笑顔でそんなことを話す同級生たちの壁を押し通るように、真宙はひたすらに真っ直ぐ歩く。そして少し遅れて二人分の足音が真宙へと近づいてくる。
「待て、待てって、真宙」
わざわざ走って追いかけてきた御調と和花が真宙を挟むようにして並んだ。
「……どこに行くの、粕谷くん」
「どこって……。そんなの決まってるよ。――桜良のいる場所だよ」
「粕谷くん……っ」
「だから真宙、その桜良はどこにいるんだよ……っ」
「……さあ。でもさっきまで同じ教室にいたんだ。僕の隣にいた。だからまだ遠くまでは行ってないと思う。……あ、もしかしたらあそこかも。桜良のお気に入りの喫茶店。今日と明日はクリスマス限定のケーキを売ってるって言ってたから、待ちきれなくてもう行ったのかも。桜良、甘いもの好きだから」
そう、きっとそうに違いない。
毎年提供されるクリスマス限定のスペシャルケーキ。桜良はそれが好きで、毎年楽しみにしていた。だからきっとそこにいる。真宙の考えた通り、彼女は我慢できずに一足先にそこへ向かったのだ。
(僕も早く追いつかなくちゃ)
きっとそこに桜良はいる。
目的がはっきりした真宙の足はさらに歩くスピードを上げた。もう他の同級生のことなんて目に入らない。一秒でも早く彼女に追いつきたい。
逸る気持ちのまま真宙は靴箱で靴を履き替え、冷え切った靴の冷たさを感じながらそのままグラウンドへ出た。
「待って、粕谷くん!」
「真宙! ちょっと待てって、真宙!」
二人の呼ぶ声もどこか遠い。もう、真宙の頭の中には教室の窓越しに見ていた少女、桜良のことしかない。
「…………っ」
だから余計に、かもしれない。
グラウンドの中程、他にも帰宅する生徒が校舎に背中を向けて歩く中、一人の少女がそれとは真逆に、そして真宙へと真っ直ぐに視線を向けて立っていた。
秋桜の髪留めで黒い髪の毛先を胸の前で結い、見慣れた制服に袖を通し、澄んだ冬の空気のような肌は怖いくらいの儚さすら感じさせる。そんな少女の姿を見て、真宙は思わず足を止める。
「……粕谷くん?」
一歩遅れて追いついた二人は、急に立ち止まった真宙へと困惑した視線を向ける。そしてその視線を追い、
「「――っ!?」」
二人も真宙と同様にその少女の姿を目にし、凍り付いたように身体を硬直させた。
「…………桜良」
御調と和花が身体も思考も停止させたその一瞬。真宙は一歩を踏み出しその少女へと向けて駆けた。
「――桜良っ!」
少女は答えない。しかしそんなことはお構いなしに、真宙は少女の身体を抱きしめる。
「……っ」
少女は確かにそこに在った。凍てつく冬の寒さを一瞬で忘れさせるほどの温かさを抱きしめた腕から感じて、彼女の存在が疑いようもないほどそこに在るのだと確信することができた。
しかしその温もりを感じた次の瞬間、彼女の首筋からは嗅いだことがない甘いチョコレートのような香りが漂い、それが真宙の鼻腔を支配する。
それは今まで桜良から感じたことがない香り。その甘い香りが一瞬、真宙の脳内を刺激するが、しかし真宙はそんな甘い香りからの刺激もすぐに忘れ、強く強く少女の身体を抱きしめ、
「桜良……っ」
絞りだすようにして、名前を呼んだ。
「――……違います、粕谷先輩」
だが真宙の耳元で発せられたその言葉には、真宙の知る桜良とは違う、そしてとても強い意志の込められた否定があった。
ぐっと胸を押され、真宙は動揺のままに少女の身体を離す。
手を伸ばせば届く距離。それだけ近くにいる少女の顔は、どこからどう見ても桜良のそれだった。
「……さく――」
「……あたしの名前は、中間秋那。――あたしは、中間桜良じゃありません」
秋那――と名乗った少女は一歩下がり、真宙から明確な距離をとる。
そして混乱する真宙の瞳をジッと見つめ、
「……お姉ちゃんは、もういません。……あたしは、あなたにとっての死神です――」
――そう、言った。
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