逃げなさい逃げなさい

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 弟の孝弘がついに結婚することになったらしい。  桜の花のつぼみが膨らみ始めた頃、清楚で真面目そうな彼女を連れて我が家にやってきた。 「呑んだ~」  挨拶はものの数分で終わって、緊張を誤魔化すためにしこたまビールを呷った弟はすっかりできあがった様子でソファに寝転ぶ。我が弟ながら、自分の親への結婚の報告にしたってだらしなさ過ぎるだろ、とスーツを来た背中を強めに叩く。 「こら。洗面所で顔洗ってしゃきっとしてきな」  私が言うと、渋々といったふうにソファから立ち上がる。 「うーん……頭いてー。じゃあ、トレイのついでに、ちょっと親父に酒注いでくるわ」 「あ、待って。お母さんがちゃんとした日本酒買ってきてあるから」  母がダイニングの椅子から立ち上がって、台所から一升瓶を抱えて弟の後を追いかける。4年前に亡くなった父の仏壇に二人で挨拶に行ったので、私は弟の結婚相手をちょいちょいと手招きして隣に呼んだ。 「真衣さん、ソファでゆっくりして。うちはこんな感じで、みんな自己中でごめんなさいね。緊張されたでしょうから、こっちでお菓子でも」  私が笑いながら言うと、真衣さんは少し困ったようにしてはにかみながら、私の隣に遠慮がちに腰を下ろした。 「失礼します……あの、由佳子さんはご存知なんですよね……その……私たちが……」  言いづらそうにモゾモゾとする様子に、私は「ああ」と先に彼女の懸念を肯定した。 「弟とはまだ知り合って2ヶ月で、デートは五回しかしてないって話かな? 一応弟からは聞いてます。それで結婚を決意してくれたのは正直ありがたいけど……本当に大丈夫? 同棲してみたり、何回かお泊まりとかしてみたほうが、価値観のズレとかがしっかり確認できて良いとは思うけど」 「いえ、こんなに素敵な男性と結婚できるなんて夢みたいで。だけど、2ヶ月で決めた結婚ですから、孝弘さんのご家族の方はどう思われてるんだろうって不安で……」 「え、うちの弟って素敵ですか?」  私が信じられないという顔で尋ねると、真衣さんは一瞬目を丸くしたあとに、クスクスとおかしそうに口に手を当てて笑う。 「ご姉弟ですもんね。私も弟がいるんですけれど、うちの弟はヤンチャで大人になっても落ち着きがなくって。それに比べると、孝弘さんは頼りがいがあって、すごく優しくて……」 「まあ、たしかに優しい奴ではあるんだけど……だけどなぁ、”思いやり”がないんだよね」 「え?」 「私、大学で遺伝子研究をやってるんだけどね。虐待は連鎖するっていう通説が本当なのかずっと興味があって。何故かっていうと、うちの親父はずっと私と弟を虐待してたんだけど、弟は至極真っ当な人間に育っちゃってさ。それが長年の不思議で。孝弘は空気が読めるし、私と母が喧嘩してたらさりげなく仲裁してくれるし、どっか遠出したらお土産を必ず買って帰ってくれるし。必要な時は車を出してくれたり、家事もする。従姉妹の子どもとも遊ぶし。だけど、私がアパートを引き払って実家に戻ってきて、孝弘と生活の時間が被るようになってきて『おや』って気づいたんだよね。優しいけど、こいつ思いやりがないなって。優しさは作れるんだけど、思いやりは人間性だから偽れないんだよねぇ」  そこまで話したところで、弟と母がリビングに戻ってくる。 「孝弘ー、あのさ、孝弘って思いやりがないよね」  私がそう声をかけると、当の本人は「はあ?」と怪訝そうな表情を浮かべる。 「それって何て答えるのが正解なのかわかんないんだけど……」  そう言いながら、テーブルに置いていた缶ビールを潰して不燃ゴミのゴミ箱へと投げ入れる。  私は隣の真衣さんから不安そうな気配を感じつつ、弟の寝癖のついた髪を見てけらけらと笑った。 「そうやってさ、分別してゴミも捨てるし、コミュニケーション力もあって基本的に優しい人間だけどさ、結婚には向いてないよね。私もだけどさ」  私が笑って言うと、台所で紅茶の準備を始めた母が「由佳子、エイプリルフールだからってやめなさいそんな冗談」と咎めてくる。  私の隣に居る真衣さんは「あ」と小さく声をあげた。 「そっか、エイプリルフール……」  えへ、と安堵したようにはにかんで笑う。  その顔はいかにも従順そうで、反抗や口答えもしなさそうで、やっぱり弟が選んできただけあるなぁ、と姉ながら感心した。 「逃げたほうがいいよ」  私が笑いながら言うと、真衣さんははにかんだ表情のままピタリと固まった。 「ちょっと、由佳子。いい加減にしなさい。あんたはいっつもよけいなことばっかり言って。父さんにもいつも怒られてたでしょ!」  母がお盆を手にやってきて、ガラステーブルの上に二つのティーカップを並べる。そこへ弟が割り込んできて、当たり前のようにティーカップのひとつを手に取って飲み始める。  私は真衣さんのほうを向いて笑みを浮かべた。 「どうぞ。私と母は飲まないので大丈夫です。この食器で飲んでいいのは、男児かお客様だけなので」  真衣さんは目を丸くしてから、孝弘の顔を見上げた。  私は作り慣れた笑みを顔面に維持したまま、つとめて明るく言う。 「真衣さん、疑問に思っちゃだめよ。我が家はもう父の独裁によって全員心を砕かれて、今さらその心は矯正も救済もできないから。一生この姑と夫と暮らすことになるの。体調崩して部屋で寝ててもドアを激しく叩いて起こされるし、『太った』とか『ブス』とか『おっぱい小さい』とか容姿を侮辱されて、完璧な家事と育児を求められて、できなかったら『出来損ない』って罵られて、女は生まれた時から男より劣っているからってイニシアチブを奪われながら生きていくの。あなたは一生、自分の夫より幸せになってはいけないの。ゆっくりお昼寝もしちゃだめ。騒音で叩き起こされて、頭痛と不快感の中それでも機嫌良くにこにこしてないとだめなの。その代わり、美味しいお土産は買ってきてくれるし、旅行にも連れて行ってくれるからね」  私はそこまでをマシンガントークのように告げて、最後に「なーんちゃって。エイプリルフール」と変顔をつくった。  母は呆れたふうに「馬鹿な子」と言って、弟の孝弘は「姉貴は永遠に神経質とヒスこじらせてるよな」と鼻で笑った。  あははははは、とリビングは笑いに包まれた。  真衣さんは信じられないものでも見ているような表情を浮かべ、ソファで震えていた。
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