0:君、うちで働こっか

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0:君、うちで働こっか

 死ぬ前に、万引きでもしてみようか。  僕が今までに食べた米粒の総数よりも人口の多そうな新宿の地下街。日差しよりも眩しい都会のエネルギーを浴びながら歩くうち、さらりと脳内に舞い降りたのは、そんなアイディアだった。  【新生活応援】を銘打ったスーツ屋のポップ、冬服のバーゲンセールを呼びかけるアパレル店員の声、血に染まった竹のようなリップが何本も並ぶコスメショップ、あとは、フレンチレストランの外壁を取り囲む老若男女の行列とか、それの回転寿司版とか。  資本主義の縮図みたいなこの空間には様々な彩りや潤いがあって、そしてそのどれもが、僕には関係ないもの。  どうにか生きてきた二十二年間でわかったのは、この僕という人生を「どうにか生き」ても特にメリットはないということ。  形式的に「大学生」という身分でいられるのは明後日まで。就職も進学もしない僕は、四月が来れば虚無になる。  ——もうそろそろ、終わりでいいだろう。  万引きを思い立ってから数分。地下街にひしめく無数の店のうち、看板に【Leather for Better】と書かれたその革製品専門店をターゲットに選んだ理由は二つ。一つは、どうせ万引きに挑戦するならある程度高級そうなところにしようと思ったこと。  もう一つは、単純に混み具合の問題。  店舗は小さめのコンビニ程度の広さで、中には身綺麗な客が十人くらい。対して店員は、恰幅の良いおじさんと若い女性の二人だけだった。おじさんの方は左奥で男性客にカバンの説明をしていて、女性はレジでテキパキと端末を操作している。  この状況なら、店頭の小物をこっそり盗ってもバレないんじゃないか。  急速に喉が乾くのを感じながら、店頭の棚と向かい合った。【季節限定カラー】と書かれたポップを取り囲む、桜色の財布やポーチ。    隣にいた男性客が去り、店頭には僕だけとなった。店員は二人ともまだ忙しそうで、僕の手元は彼らの死角になっている。  値札に書かれた引っかき傷のような数字と睨み合ううち、「今なら行ける」と「ほんとにやるのか?」が頭の中でステレオに響き始めた。手が震える。行き交う人々の足音や話し声、地下街の軽快なBGM。社会が、僕を監視しているみたいだ。  大きく深呼吸して、視界の端で店員の視線を確認しながら桜色のポーチに手を伸ばしたその時。   「すみませーん」  左隣から聞こえた声に思わず振り向くと、小柄なおばあさんがそこに立っていた。  知らない人だ。けど、そのやさしそうな瞳は確実に僕を見ている。 「……はい?」  戸惑いながら返事をすると、おばあさんは少しきまり悪そうな顔をして。 「ごめんなさい、ちょっとこれの見方教えてくれないかしら?」  彼女はそう言って、手に持ったスマホを僕に見せてきた。画面に映っていたのは、この地下街のフロアマップだ。 「ダイソーに行きたいんだけどね、文字がよく見えなくて」  またか、と思った。なめられやすい見た目をしているせいか、こうやって見知らぬ人から道を聞かれることが多い。 「……触っていいですか?」  おばあさんが頷くのを確認して、液晶画面にそっと触れる。二本指で地図を拡大すると、おばあさんは「ああ、そうやって大きくするのね」と笑った。 「スマホって慣れないのよねえ。孫に教えてもらってるけど全然覚えられなくて」 「機能多すぎてわかんないですよね……あ、見つかりましたよ」  地図上でダイソーの文字を指差しつつ、現在地からの道筋を頭の中で辿った。距離はそこまで遠くないけれど、何度か曲がらないといけないので少しややこしい。  左にまっすぐ進んで、どこどこで右に曲がってください……という感じで説明できればよかったのだけど、あいにく僕は道の説明が苦手だ。 「そんなに遠くないところなので、一緒に行きましょう」  声がぎこちなくなるのを自覚しながら言うと、おばあさんは少し申し訳なさそうな、それでいて安心したような微笑みを見せた。
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