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序章Ⅲ
「ははっ、よく分かったな。確かにこれは唐揚げじゃあない!」
「……」
「うぐっ……こ、この料理は竜田揚げといってだな、唐揚げと同格の食べ物なんだ」
「……たつた……あげ」
少女は口の中で転がすように、初めて聞くであろう料理の名前を繰り返した。
「えーなんでも、その昔、とある人里で暴れ回る凶暴なドラゴンがいて、幾度となく田畑が荒らされていたらしい。で、そんな噂を聞きつけた或るひとりの勇者が熾烈な戦いの末、見事その竜を討伐したんだそうな。そして何を隠そう、その時に討ち取った竜肉で作ったとされる由緒正しき料理こそ、現在、君の目の前にある竜田揚げなんだ。唐揚げよりもサクッとした食感で、若干白い衣はドラゴンの鱗を再現しているとか何とか」
俺は適当な身振り手振りを交えて制作時間一分足らずの昔話を語った。
自分で作っておいてなんだが、何ともおバカな伝承である。
「……そう」
案の定、少女の反応は酷く冷淡なものであった。
でもまあ、期待を裏切ってしまったのだから……そりゃあ嫌にもなるか。
「あー……えっと、その……ごめんな」
逃げ場を失った俺は小さく謝罪すると、僅かに熱を失った竜田揚げを片す為に、少女の目前に置いた皿に右手を延ばした。
「……強そうね」
「へ?」
少女の予想だにしない発言に俺は思わず素っ頓狂な声を上げる。
「……お肉……どらごんの……」
驚く俺をよそに、少女は徐に手にした箸を竜田揚げに突き刺した。くんくんと香りを確認された竜田揚げが少女の可愛らしい口元へと運ばれてゆく。
サクッ、ザクッ、ジュワッ。
白い粉模様を描いた黄金色の肉塊が、少女の口の動きに合わせて優しい音色を奏でる。
「ど、どうだ? 美味いか?」
「……ん」
小さく頷く少女。
相変わらず情感に乏しい表情ではあるものの、どうにか満足ゆく味に仕上がってくれたらしい。持ち帰るのを前提に山のように盛られた竜田揚げはものの数分で二合目付近まで姿を消してしまった。
「口に合ったようで良かったよ、ほれ」
「……?」
「ナフキン。ここ、口元に衣が付いてるぞ」
「……ん」
少女は食べていた箸の手を止めて差し出された紙ナフキンを受け取ると、口元の衣と唇についた油を軽く拭った。それから僅かに光沢を帯びたナフキンを皿の横にそっと置き、無言で食事を再開する。
「ウチはそろそろ閉店だし、気にせずゆっくり食べな」
「……ん」
こくりと頷き食べる速度を落とした少女の姿を、俺は水を注いだグラスを置きながら舐めるように見た。
幼くも艶かしいその曲線……。
透明感のある白い肌は、光を当てたら透けてしまうのではないかと思うほど。美しく、そして儚い。
彼女の奇異な特徴を挙げるとキリがないが、そんな中で何より目を惹くのは、比類のない端正な顔立ちに映える、くりっとした丸くて大きな瞳であろう。きっと疑いようもない美少女とはこういう娘を指すのだとも思った。
だけど――
こうして黙っていると彼女はまるで感情のない操り人形のようで、俺は哀憐に似た心すら覚えた。
「……っと、ごめんごめん。もうご馳走様でいいか?」
「……ん」
驚いたことに、どうやら俺がボーっとしている間に食べ終えたらしい。
気持ち程度に添えた千切りキャベツまで見事に完食した少女は、グラスを両手で包み込むように持って最後の一滴を喉元に運んでいた。
「ここまで綺麗に食べてもらえると作った甲斐があるな」
「……ん」
「……」
「……」
「暗いから気を付けて帰るんだぞ」
「……ん」
少女は立ち上がって軽く頭を下げると、てくてくと店の外へ。
「あっ……ちょ、ちょっと待って!」
俺は慌てて少女を呼び止め、レジの椅子の背もたれに掛けてあった自分のフード付きのコートを掴んで追い駆けた。
「ほら」
「……?」
コートを差し出された少女にはその行動が意味するところを理解できなかったようで、目をぱちくりさせながら俺の顔と上着とを交互に見つめるだけだった。
「はぁ……あのさ、そんな格好だと風邪引いちゃうだろ?」
少女の反応に半ば呆れつつ、コートをそっと肩に掛けてあげる。
「……あ……かい」
少女は小さく何かを呟いて、ぶかぶかのコートの袖を自分の顔に持っていった。
……変な匂いしないよな?
「まあなんだ、腹が減ったらまたいつでも来いよ。次こそは、すっっっっげえ美味い唐揚げをご馳走してやるからさ」
「……ど……ん」
「……え?」
「……どらごん」
「どらごん? ……あ、ああ! そりゃあ勿論、竜田揚げだって気が済むまで好きなだけ食べていいぞ。ただし、次回までに名前を覚えてくるのが宿題な?」
「……ん」
少女はコクコクと頷くと、ゆっくりと背を向け、それから消えるように雪降る夜の街へと吸い込まれていった。
「うぅ……寒っ」
本日最後となるお客様を見送った俺は震える身体に鞭打って、店内に戻ると一人後片付けを進めていった。
そして、最後に店の扉にきちんと施錠したのを確認してから、俺は必要な材料を揃える為に近くの二十四時間営業のドラッグストアへと向かった。あの子が明日の朝一番に来ても大丈夫なように。
「……それにしても不思議な子だったな」
雪空の下を歩く俺の脳内は彼女のことでいっぱいだった。
「見た感じ携帯とかは持ってなそうだから連絡先は聞けなかったけど……って、名前すら聞いてねえよ……。まあでも俺なんかがあんな可愛い子と知り合えただけでラッキーだし、まずは美味しい唐揚げを食べさせてあげることが最優先かな〜」
そうしたら今度こそ彼女に笑ってもらえるかもしれない、そんな事を思った。
まだ見ぬ少女の笑顔を想像するだけで自ずと鼓動が高鳴ってしまうような、それでいてどこか背徳の薫りのするときめきを感じるような、そんな不思議で捉えどころのない感覚に支配されるのであった。
俺は両の掌で自分の頬を軽く叩き、
「ようし、帰ったら早速準備を」
ドスッ――
何かが俺の胸を貫いた。
(なん……だ?)
突然背後から襲ってきた謎の衝撃と、勢いよく噴き出す温かい何か。
俺は、崩れ落ちるようにしてその場に倒れ込んだ。雪の絨毯が見る見るうちに真紅に染まってゆく。
(これは……俺の血……か?)
血。血液。体内を巡る、紅蓮の液体。
白銀の世界を侵食したのは、ほかでもない――己の鮮血であった。
(ハハハ……やっぱり……今日は一段と寒いですわ……)
体温が急激に下がってゆくのが把握る。
尋常でない量の血液が失われている所為なのか、真冬の夜の路上に寝ている所為なのか、或いはその両方か。骨の髄まで凍るような寒さが、横たわる俺を襲う。
ただひとつ不思議なことに、刺されたとも殴られたとも異なる謎の不快な衝撃が俺に僅かな痛みすら感じさせなかったことは、見方によっては不幸中の幸いと言えるかもしれない。
――と、その時。
「チガウナ……コイツジャナイナ」
頭上から浴びせられる男のものであろう低く無慈悲な音声。
どうやら俺はただの人違いで死ぬことになるらしい。
「シカタナイナ……イクカナ」
少しずつ足音が遠ざかってゆく。
今年は、七年ぶりのホワイトクリスマス。
だから言ったではないか――縁起の悪い数字であると。
(ふっ……ベリークルシミマスってか……)
そう呟いたのは、ほとんど苦し紛れの行動に等しかった。
そうでもしないとこの状況に耐えられなくなりそうで、数秒後にはこのまま自分という存在が消えてしまうのではないかという畏怖の念を抱いたからだ。
しかし、その直後の出来事だった。
ザスッ。バギッ……ドサッ……!
突然何かを刺し貫くような不快音が鳴り、その何かが雪の上に倒れるような物理音が辛うじて耳に届いた。
「……か……げ」
そして、再び聞こえてくる何者かの声。
意識が朦朧として正確に聞き取れないが、恐らく俺を襲った奴とは異なる人物のものだと思う。
(どこの誰だか知らないが急いでこの場から離れた方がいい! きっとまだ犯人が近くにいるはずだから!)
――俺の言葉は、届かない。
必死に警鐘を鳴らそうとしても、それを口にする力は既に残っていなかった。言葉を届けることは勿論、相手の台詞を受け取ることもできない。立ち上がることも、すぐに死ぬことさえも。
意識を失うまでの退屈な時間が、俺を苦しめる。
「……か……あげ」
謎の通行人Bは今尚懸命に声を掛け続けてくれているようだが、やはり何を言っているのか分からなかった。
しかし、そんな絶望的な状況にもかかわらず、俺の頭に浮かんでいたのは、今日出会ったばかりの名前も知らないひとりの少女の姿であった。
(……ごめんな)
それは小さな約束をした少女への謝罪の言葉。
出会ったばかりで名前も知らない相手なのに、どうしてこれ程までにあの子のことが気になるのか。この広い世界からすれば歴史にも人の記憶にすら残らない出会いで、取るに足りない約束なのに。
俺は、その答えを持ち合わせていない。
だが困ったことに、少女が一瞬だけ見せた表情が脳裏から離れないでいる。
上手く表現できないけれど、何かこう、長い孤独からようやく解放された……みたいな。それはただの気のせいかもしれないし、俺の勝手な思い込みと言われたら否定はできないであろう。
それでもあの時、あの場所で、俺は、あの子を一人にしたらいけないと思った。思ってしまったのだ。俺がもっとしっかりしていれば、俺にもっと力があれば、あの子との約束を破らずに済んだのではないか、と。
「……っ」
最後の力を振り絞り、天に向かって手を伸ばす。
神様、仏様、サンタ様、天使でも悪魔でも、なんなら世界を恐怖に陥れる大魔王だっていい。
もし、もしも一度だけ、この理不尽な運命を変えることができるのならば――
「生まれ……変わったら、今より……も、強く……」
こうして俺、三枝光芭の十八年という短い人生は幕を下ろした。
最後に聞いたのが通りすがりの赤の他人の声だなんて、まさに俺らしい最期ではないか。
何もできない。何も叶わない。女の子との約束ひとつ果たすことすらできずにただひとり死んでゆく、そんな人生。
それでも、消えかかる意識の中で、何故かはっきりと聞こえたんだ――
「……わかった」
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