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彼が私の部屋に引っ越してきて、一ヶ月が過ぎた。
同棲を開始してすぐに、私が地方公演へ行く事になり、半月近く家を空けていた。
やっと地方公演から戻り、私は長旅の疲れを引きずりながら自宅のリビングに入る。
すると、隣の防音室から、微かにバリトンサックスの音色が聴こえて、どこかホッとした気持ちになった。
大好きな人が奏でる音を聴いただけで、こんなにも安心するものなんだ。
すぐそばに感じる彼の存在感と彼の奏でる音色が、クタクタになった私を優しく包み込む。
私は防音室の扉をノックすると、彼が演奏を止め、ドアを開けてくれた。
「お帰り。長旅、お疲れ様」
「春樹くんもお疲れ様」
春樹くんと私は、冷蔵庫からビールを取り出し、リビングのソファーに腰掛けて細やかな『お疲れ様会』をする。
「家に帰ってきて、防音室で春樹くんがバリサク吹いているのを聴いて、すごくホッとしたよ」
「ああ、俺も帰宅した時に、咲が防音室でトランペットの練習している音が聴こえると、ああ、愛する女性がそばにいるって安堵感があるな」
ここで私は、高校時代から聞いてみたかった事を、彼に質問してみた。
「ところで春樹くん、どうしてバリサク買ったの? サックス吹きの人だと、アルトとかテナーを買う人が多いよね」
彼は白い歯を微かに見せながら、私の問いに答えてくれる。
「バリトンサックスってさ、吹奏楽だと、チューバやコントラバスと同じ音を吹く事が多いだろ? それがサックスの四重奏や五重奏だと、バリサクのカッコいいソロがあったりするんだよな。だから俺、アンサンブルコンクールは率先して参加してた」
「そうなんだ。木管も奥深いんだね」
「だろ?」
春樹くんと私は、寄り添い合いながら、お酒を楽しみつつ、積もり積もった話をする。
静かに夜が更けていき、私は彼と一緒に寝室へ向かった。
****
春樹くんと私は、生活スタイルが真逆、といっても過言ではない。
それでも、春樹くんと私は試行錯誤しながら、時にはぶつかり合いながら、自分たちなりの生活スタイルを築き上げていく。
同棲するという事。
春樹くんと私にとって、それは帰宅した時、防音室から微かに聴こえてくる楽器の音色で、互いの存在感を確かめ、安堵する事なのかもしれない。
——La fine——
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