392人が本棚に入れています
本棚に追加
二、花と棺
月の見えない寒い夜。
明蝶家の開かれた門から、通夜にやってきた人々の列が伸びていた。男も女もわざと目に付くように、数珠を幾重にも巻き、護符が入った守り袋を首から下げている。
妖魔が潜んでいるとも限らない夜道は、用心するにこしたことはない。とはいえ。
仰々しい――黒いコートを羽織った男が、苦々しげな顔をした。
さらに、瓦斯燈に照らされた屋敷の土塀に視線を移し、呆れたように言うのだ。
「穴だらけの結界だな」
彼の目には、ぬるりとした膜に、ところどころ虫食いのような穴の空いた結界が見える。
男の名は、不動薫。不動商会や不動建設などを経営する実業家だ。見た目は二十代半ばといったところだろう。
長身ですらりとした体躯の、美しい顔立ちをした青年で、忌々しげに眉を顰める表情さえ絵になった。
額にかかる前髪を払いながら、薫はうんざりしたような顔をする。
「こんなもの何の意味も成さない。結界師とはペテン師のことを言うのか?」
結界師とは、悪霊や妖魔を立ち入らせないよう、屋敷の周囲に結界を張り巡らすことを生業とする者を指す。ここ最近は、野良の術者が、日銭稼ぎに結界師を名乗っていることも多いようだ。
「穴がなかったとしても、社長ならぶち破ってしまわれるくせに」
薫の隣に並ぶ、縛った長い髪を背中に垂らし、黒い背広を着た男が言った。薫より少しばかり落ち着いた雰囲気で、三十歳そこそこといった風貌である。
「ああ、そうか、藤。明蝶家を選んだのは、お前が入りやすい屋敷だったからか。よくもまあ、こんな下級の屋敷のご令嬢を俺にあてがおうとしたな」
薫の嫌味に、藤と呼ばれた男は頭を抱える。
「下級って、社長の見合い相手ですよ? しかも故人に対してその言い草……本当に、あなたというお人は」
「どういう意味だ?」
薫は訳が分からないと言った風に、首を傾げた。
「情がないって意味です」
遠慮がない藤に、薫はむすりとする。
顔も見たことのない見合い相手が急逝したところで、何の感情も沸かない。しかも、自分の知らぬところで勝手に進められていた、政略結婚の相手である。愛情のようなものは最初からなかった。
そもそも、愛などという感情は持ち合わせていない。
薫にすれば、思ったままを言っただけ。
「とにかく、行きましょう。さあ、早く」
藤は急かすようにして、薫に明蝶家の門をくぐらせた。
「だいたい、何がどうしてこんな急に、ご令嬢は亡くなられたんだ?」
「どうやら、もともとお体が弱かったそうです。そんな話は一言も聞いていませんでしたが。それどころか、明蝶伯爵夫人はお金の話にしか興味がなく」
藤は肩を竦める。
「それはそうだろう。娘を売るような母親だ」
薫は淡々と言った。
「いや、だから、その言い草」
声を潜めつつも、藤は薫を諌める。
「お前だって、それを見込んで縁談を持ちかけたんだろう? 俺のようにどこの馬の骨か分からない成金が、華族のご令嬢を娶るなんて簡単なことじゃないはずだ」
薫は不満げに答えた。
二人は記帳を済ますと、女中の後をついて屋敷内を進んでいく。
「その通り。いくら社長があちらでは高貴な血筋のお方だとしても、こちらでは通用しませんからね。むしろ、素性が知れれば門前払い」
「お前だって、その言い草……口を慎め」
じろりと薫が睨むと、さすがの藤も口を噤んだ。
門前払いか――己の出生に、薫は複雑な思いになる。
あちらの冥世とこちらの人世の扉が封じられて九百年。
人世で生まれた薫は、冥世を知らない。
長い年月、薫や薫の父は、人と変わらぬ営みをしながら暮らしてきた。
「こちらでございます」
女中の声にはっとして顔をあげる。
二人は、長い廊下の先にある、広間へと通された。
「あら、まあ、藤さん。じゃあもしかして、こちらが不動さん? 本当に、こんなことになって、私もどうしたらいいのか」
明蝶伯爵夫人は芝居がかった口調で、二人に近づいてきた。
最初のコメントを投稿しよう!