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「社長、白雪様が怯えているじゃないですか。もっと優しい口調で話しかけるべきです。びっくりされましたよねえ?」
藤は白雪ににっこりと微笑みかける。
「へらへらと……」
そんな藤の様子を見て、薫は口をへの字に曲げた。
「ふ、不満などございません。むしろ、わたしなどで良いのでしょうか。こ、こんなわたしで……」
「は? 何を言って……だから、何も気にしなくていいと言っているだろう?」
苛ついたように、薫がテーブルへ新聞を置く。
「も、申し訳ありません」
白雪は深く頭を下げた。
怯えているわけではない。ひどい扱いを受けたとしても慣れている。
ただ、命の恩人でもある薫が、体は虚弱なうえ落ちぶれた令嬢を妻にして恥をかかないかと、白雪は心配だった。
「ほら、社長」
じっとりとした目で、藤は薫を責めるように見た。
薫がこほんと咳払いをする。
「とにかく、食事にしよう」
薫は手元のベルをちりんと鳴らした。
すると、食堂の扉が開き、女が一人あらわれる。白い襟とカフスが付いた、黒いワンピースを着ていた。フリルがあしらわれた白いエプロンをかけているということは、女中なのだろう。
「橙、朝食の用意をしてくれ」
ひっつめ髪でつり目の、橙と呼ばれた女中は、「かしこまりました」と下がっていった。
「梔子の作る料理は美味いんですよ。梔子っていうのは、うちのシェフなんですが」
楽しそうに説明をする藤に、白雪は静かに相槌を打つ。
しばらくすると、橙が料理を運んできた。
テーブルに並べられたのは、ふんわり黄色いオムレツ。
白雪は、レストランのような朝食に目を瞬かせる。
元気だった頃の父と出かけたのを最後に、長い間、外食もしていない白雪にすれば、ごちそうだった。
「冷めないうちにいただきましょうか」
藤が言い、薫もフォークを手に取った。
白雪は、遠慮がちにオムレツを掬って口に入れる。
「まあ……」
口の中でしゅわしゅわと溶けていくような食感に、思わず声をあげてしまった。
「ねえ? 美味いでしょう?」
藤が得意げな顔をする。
「は、はい。このようなオムレツはじめて食べました。ふわふわであっという間に消えてしまうなんて。まるでスフレみたい」
「スフレをご存じなのですか?」
藤に訊ねられ、白雪は慌てて口を押さえた。食事中にはしたないと、青ざめる。
「おしゃべりで、申し訳ありません」
「気にするな、続けろ」
しかし、薫は白雪が話し出すのを待っているようだ。
「父が所有する異国の書物に、スフレというお菓子が載っていました。説明書きを読んだだけで、口にしたことはありません。だけど、たぶん、こんな感じで、ふわふわした食べ物じゃないかしら。わたしも、こういうふわふわしたお料理を、いつか作ってみたいと思っておりました」
「へえ……」
意外にも薫は、白雪の話にしっかり耳を傾けている。
するとすかさず、藤が言った。
「でしたら、梔子に習うといいですよ。私から、言っておきますから」
「えっ、よろしいのですか?」
白雪は恐る恐るといった風に、藤を上目遣いで見る。
「いいですよね、社長?」
藤に念を押されるように言われ、薫は「別にかまわない」とぶっきらぼうに答えた。
「あ、ありがとうございます」
白雪の胸はどきどきと高鳴っていた。
料理を教わるなんて、夢のようだ。
その時ばかりは、本当にまだ夢の中にいるのではないかと思えるほど、幸せな気持ちだった。
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