390人が本棚に入れています
本棚に追加
「い、命を救っていただき、ありがとうございます」
白雪は、思わず薫から目をそらしてしまった。
唇が触れ合ったとはいえ、特別な意味はないはずだ。
薫はただ、術を使っただけ――しかし、意識しないようにすればするほど、薫の目が見られなくなっていった。
白雪にもそれ相応の、恋愛に関する知識はある。女学校時代は、恋する乙女たちの会話をすぐそばで聞いていたのだから。
薫の接吻は、決して愛を確認する行為ではない。
だとしても、事実は、白雪を戸惑わせた。
「恐れることはない。やがて血が馴染むだろう」
すぐ近くで薫の声がして、白雪は我に返る。
気づけば、薫が自分の隣に座っていた。
いつの間に――呆然としながら、白雪は均整の取れた薫の横顔を見つめる。
薫が白雪のほうへと体を向けてきた。背もたれに手をつき、白雪を囲うようにしている。
「馴染めばむしろ、俺を慕い、従わずにはいられなくなる。これは血の契約だ。逃れられない運命と諦めろ」
「血の契約……」
白雪は理解が及ばず、ますますぼんやりとしてしまうのだ。
唐突に、薫の指が顎にかかり、上を向かされる。
「どうだ。今は俺が恐ろしいだろう?」
「い、いいえ……」
白雪は首を横に振った。
薫から漂う、酸味と苦味が混じったような魅惑的な香りに、軽いめまいを覚える。
「嘘をつけ。怯えたような目をしているくせに」
暗い瞳に吸い込まれそうだ。それでも、もう目は離せなかった。
「俺の命令は絶対だ。裏切るような真似をすれば、命はない」
「け、決して……そんな真似は……」
「ならば、いい。もう行け」
混沌としていた意識が、途端にはっきりとする。
薫は白雪から手を離すと、腰を上げようとした。
「あ、あの……」
白雪は薫を呼び止めてしまったことを、すぐに後悔する。
「何だ?」
「つまり、その……」
白雪が口ごもっていると、薫は不機嫌そうに髪をかきあげ「はあ」とため息をついた。
これ以上苛つかせてはなるまいと、白雪は覚悟を決める。
「わたしにお屋敷の仕事をさせてください。炊事や掃除はひと通りできます。洗濯だけでもかまいません。お願いいたします」
「分かった。好きにしろ」
「え……」
あっさりと認められ、白雪は拍子抜けする。
「まだ他にもあるのか?」
「いいえ。ただ、生意気なことを……申し訳ございません」
「生意気? 仕事をすることが?」
「いえ……女が意見することははしたないことだと、父からは厳しく躾けられてきましたので」
女は黙って従うもの――それが、明蝶家の女の生き方。
だから白雪は、記憶に残る、凛とした母の姿を見倣うようにして生きてきた。
最後まで弱音も吐かず、涙も見せなかった母のように。
しかし、生まれ変わっても、再び母のように生きたいかと問われたら、分からなくなる。
「ここは明蝶の家ではない。白雪の好きにすればいい」
「あ、ありがとうございます」
薫の命令は、白雪には意外なものだった。まるで、自由にして良いと言われているみたいだ。
「礼には及ばない。こちらは明蝶家の妻を迎えることで、信用を得られる。これまで以上に人脈を広げられ、大きな事業にも携われるようになるだろう。そのための結婚だ」
今度は突き放されたように言われ、戸惑う。
「はい」
わたしは、お飾りの妻になるのだ――
分かっていたはずだ。なのに、白雪の胸は軋んだ。
やはり、母のように生きていくのが明蝶家の女なのだろう。
「好きにしていいが、言いつけは守れ。また命を狙われないとも限らない。屋敷から勝手に出るな」
「わたしが、命を……?」
まさか、自分に毒が盛られたとは思いもしなかった白雪は、改めて人が恐ろしくなるのだった。
最初のコメントを投稿しよう!