二、花と棺

10/10
前へ
/80ページ
次へ
「い、命を救っていただき、ありがとうございます」  白雪は、思わず薫から目をそらしてしまった。  唇が触れ合ったとはいえ、特別な意味はないはずだ。  薫はただ、術を使っただけ――しかし、意識しないようにすればするほど、薫の目が見られなくなっていった。  白雪にもそれ相応の、恋愛に関する知識はある。女学校時代は、恋する乙女たちの会話をすぐそばで聞いていたのだから。  薫の接吻は、決して愛を確認する行為ではない。  だとしても、事実は、白雪を戸惑わせた。 「恐れることはない。やがて血が馴染むだろう」  すぐ近くで薫の声がして、白雪は我に返る。  気づけば、薫が自分の隣に座っていた。  いつの間に――呆然としながら、白雪は均整の取れた薫の横顔を見つめる。  薫が白雪のほうへと体を向けてきた。背もたれに手をつき、白雪を囲うようにしている。 「馴染めばむしろ、俺を慕い、従わずにはいられなくなる。これは血の契約だ。逃れられない運命と諦めろ」 「血の契約……」  白雪は理解が及ばず、ますますぼんやりとしてしまうのだ。  唐突に、薫の指が顎にかかり、上を向かされる。 「どうだ。今は俺が恐ろしいだろう?」 「い、いいえ……」  白雪は首を横に振った。  薫から漂う、酸味と苦味が混じったような魅惑的な香りに、軽いめまいを覚える。 「嘘をつけ。怯えたような目をしているくせに」  暗い瞳に吸い込まれそうだ。それでも、もう目は離せなかった。 「俺の命令は絶対だ。裏切るような真似をすれば、命はない」 「け、決して……そんな真似は……」 「ならば、いい。もう行け」  混沌としていた意識が、途端にはっきりとする。  薫は白雪から手を離すと、腰を上げようとした。 「あ、あの……」  白雪は薫を呼び止めてしまったことを、すぐに後悔する。 「何だ?」 「つまり、その……」  白雪が口ごもっていると、薫は不機嫌そうに髪をかきあげ「はあ」とため息をついた。  これ以上苛つかせてはなるまいと、白雪は覚悟を決める。 「わたしにお屋敷の仕事をさせてください。炊事や掃除はひと通りできます。洗濯だけでもかまいません。お願いいたします」 「分かった。好きにしろ」 「え……」  あっさりと認められ、白雪は拍子抜けする。 「まだ他にもあるのか?」 「いいえ。ただ、生意気なことを……申し訳ございません」 「生意気? 仕事をすることが?」 「いえ……女が意見することははしたないことだと、父からは厳しく躾けられてきましたので」  女は黙って従うもの――それが、明蝶家の女の生き方。  だから白雪は、記憶に残る、凛とした母の姿を見倣うようにして生きてきた。  最後まで弱音も吐かず、涙も見せなかった母のように。  しかし、生まれ変わっても、再び母のように生きたいかと問われたら、分からなくなる。 「ここは明蝶の家ではない。白雪の好きにすればいい」 「あ、ありがとうございます」  薫の命令は、白雪には意外なものだった。まるで、自由にして良いと言われているみたいだ。 「礼には及ばない。こちらは明蝶家の妻を迎えることで、信用を得られる。これまで以上に人脈を広げられ、大きな事業にも携われるようになるだろう。そのための結婚だ」  今度は突き放されたように言われ、戸惑う。 「はい」  わたしは、お飾りの妻になるのだ――  分かっていたはずだ。なのに、白雪の胸は軋んだ。  やはり、母のように生きていくのが明蝶家の女なのだろう。 「好きにしていいが、言いつけは守れ。また命を狙われないとも限らない。屋敷から勝手に出るな」 「わたしが、命を……?」  まさか、自分に毒が盛られたとは思いもしなかった白雪は、改めて人が恐ろしくなるのだった。
/80ページ

最初のコメントを投稿しよう!

390人が本棚に入れています
本棚に追加