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三、闇からの使者
白雪の不動邸での暮らしも、はや半月となった。
玄関先で、秘書の藤へと、薫が鞄を渡す。鈍色の三つ揃いを着てネクタイを閉めた凛々しい薫の姿に、見送りに出てきた白雪は思わず見惚れた。
荒っぽい方法で会社を大きくしたと聞いているが、不思議と薫からは粗野な感じを受けることがない。白雪が薫を怖いと思うのは、何者かつかめず、得体が知れないからだ。
「あの辺りの土地はすべて買い占めろ。不動のビルディングで埋め尽くす」
薫が毅然と藤に指示をする。
商社としてはじまった不動商会であるが、近代化に伴い、建築部門にも力を入れているようだ。薫は特に異国の建築に興味を持ち、自邸の洋館の設計にも積極的に関わったと、白雪は藤から聞いていた。
「何か用か?」
コートを羽織りながら、険しい顔つきで薫が言った。
「お、お見送りを……」
おどおどしながら白雪が答えると、薫はさらに眉間の皺を深くした。
「白雪様、今日は予定が詰まっていますので、社長のお帰りは遅くなると思います。先に食事を済ませておいてくださいね。それでいいですよね、社長?」
藤は気を利かせてくれたのだろうが、薫は「ああ。勝手にしろ」とそっけない。
とはいえ、そんな薫の態度にもすっかり慣れてしまった。
「いってらっしゃいませ」
いつものように白雪は、誠心誠意をもって深々と頭を下げる。
白雪にとって薫は、命の恩人だ。また、今の明蝶家は薫の支援で成り立っている。
感謝してもしきれない――これからは、父や夜子にしてきたように、薫に仕えるだけ。そもそも最初から、他の選択肢などないのだから。
二人を乗せた自動車が門を出ていくのを見届けてから、白雪は箒を手にして外に出た。
花崗岩の柱に支えられた立派な鉄格子の門扉を見上げ、その先にある空の様子を窺う。
「雲行きがあやしいわ」
白雪は雨が降る前にと、急いで箒で落ち葉を掃き集める。
そうして、しばらく門の周囲を掃いていると、「白雪様」と声がかかった。
「錦秋屋です。おはようございます」
柵の向こうから、銀鼠の着物に灰色の羽織を合わせた男が、白雪に微笑みかけている。
「錦秋屋さん、どうなさいましたか?」
錦秋屋は、明蝶家と古くからつきあいのある呉服屋だった。
「この近くに用がありましたので、ついでにと寄らせていただきました。ちょうど良かった。白雪様のお着物も仕上がっております」
錦秋屋の番頭は、丁稚を呼んだ。華奢な少年は、行李を背負い、風呂敷包みを手にしている。その手首には、どこかで見た覚えのある数珠。
「わたしの?」
「不動様に、お着物や帯に小物まで、たくさんご注文いただきました」
「旦那様が……でも……」
薫からは外の者を中に入れてはならないと、きつく言われている。白雪が勝手にこの門を開けるわけにはいかなかった。
「他の使用人を呼んでまいりますので、少しお待ちください」
白雪が屋敷へ戻ろうとした時だ。丁稚の少年が、「うわあ」と声をあげる。
空からぽたりぽたりと、雨のしずくが落ちてきたのである。
「どうしましょう。大事な着物が濡れちまう」
丁稚が焦ったように言った。
「馬鹿! 商品を濡らす奴があるか!」
番頭は丁稚を叱りながら、急いで羽織を脱いで風呂敷包みにかぶせた。
旦那様が用意してくださった着物が――白雪は慌てて門に手をかける。
「ど、どうぞ、中に入ってください」
「すみません。ほら、行くぞ」
錦秋屋の二人は、白雪が開けた門から、不動邸の中へと足を踏み入れるのだった。
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