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「お幸せそうで何より」
三郎は宙に浮く帯を一本抜き取ると、端を握って大きく振り上げた。
「白雪のすべてが憎くてたまらない。いっそ死んでくれたらいいのに……」
三郎の声が女のものに変わる。生気のない薄気味悪い顔が、白雪を見据えていた。
やがて、空気を切る音と共に、白雪に向かって帯が振り下ろされる。
帯は鞭のようにしなり、白雪の体を鋭く打ち付けた。
「きゃあ!」
白雪の体は軽く飛び、どさりと床へ落ちる。
「お、おい。三郎、何をしている?」
番頭は何とか三郎の足にしがみつくが、いともたやすく振り払われた。
「その顔……お前、意識がないのか?」
白目を剥いた三郎は、ゆらゆらと揺れながら白雪へと迫る。
三郎の顔がぐにゃりと歪んだ。押し出されるようにして目玉がひとつ、どろりと流れ出る。目玉は床へと落ちて、ごろごろと転がった。
「ひっ……!」
悲鳴をあげそうになり、白雪は両手で口を覆った。
しかし、手元まで転がってきた目玉は、すぐさま霧となって消える。
まさか、幻影――夢か現か分からずに、白雪は自分の頬に触れた。
「痛っ……」
そこへ、衣擦れの音が耳に届く。
「三郎、やめろ!」
三郎へと手を伸ばした番頭めがけ、しゅるりと帯が舞い降りてきた。
帯は番頭の首に巻き付くと、じわじわと締め上げていく。
「ううっ」
三郎は、苦しむ番頭に見向きもしなかった。再び別の帯を手にし、ぶんと振り上げる。
「シンデクレタライイノニ……」
「嫌、やめて……」
白雪は床を這って逃れようとするが、思ったように体は動かない。
「シンデ……」
死にたくないと、心が叫んだ。
助けて――白雪の目に涙が溜まる。
再び三郎が帯で白雪を打とうとした時、白雪の眼前で、壁にぽっかりと穴が開いた。
「白雪様!」
穴から走り出てきたのは橙だ。目にも留まらぬ速さで体を回転させ、三郎へと蹴りを食らわす。ひらりと、橙の黒いワンピースが翻った。
「ぐはあっ!」
三郎のうめき声が轟く。数珠の紐が千切れ、玉が飛び散った。
急がなければ――三郎が床に沈むのを見届け、白雪は応接間を出て台所へ向かった。
口の中を切ったのか、血の味が広がる。じんじんと頬が痛む。それでも立ち止まることはしなかった。髪が乱れようと、着物の裾が広がろうと、かまわない。
幸いなのは、どれだけ走っても少しも胸が苦しくないことだ。
台所の戸棚から酢瓶を取り出し、白雪はすぐさま応接間へと舞い戻る。
まさに、橙が拳を振り上げ、ぐったりする三郎を仕留めようとしているところだった。
「待って!」
白雪は、三郎をかばうように立ちはだかる。
「白雪様、お退きになってください」
橙は冷え切った声で言う。
「待ってください。意識を取り戻せば、きっと」
白雪は酢瓶の栓を抜き、三郎の顔めがけてじゃばじゃばと注いだ。
「……がはっ、うぐっ」
三郎の口から、真っ黒な色をした粘り気の強い液体が、どろどろと吐き出される。液体はぬるりと頭と尻尾を生やし、やがて蛇の形になった。蛇の体に、織物の美しい模様が浮かび上がる。華やかな帯のような蛇が、床を勢いよく這っていった。
「待て!」
橙が素手で捕まえようと、蛇に飛びかかった。
しかし、蛇はするりとかわす。さらに、ぎゅっと体を縮ませたあと一気に伸ばし、高く跳ねた。蛇は窓を破り、雨が降りしきる庭へと逃げ出てしまった。
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