三、闇からの使者

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「お幸せそうで何より」  三郎は宙に浮く帯を一本抜き取ると、端を握って大きく振り上げた。 「白雪のすべてが憎くてたまらない。いっそ死んでくれたらいいのに……」  三郎の声が女のものに変わる。生気のない薄気味悪い顔が、白雪を見据えていた。  やがて、空気を切る音と共に、白雪に向かって帯が振り下ろされる。  帯は鞭のようにしなり、白雪の体を鋭く打ち付けた。 「きゃあ!」  白雪の体は軽く飛び、どさりと床へ落ちる。 「お、おい。三郎、何をしている?」  番頭は何とか三郎の足にしがみつくが、いともたやすく振り払われた。 「その顔……お前、意識がないのか?」  白目を剥いた三郎は、ゆらゆらと揺れながら白雪へと迫る。  三郎の顔がぐにゃりと歪んだ。押し出されるようにして目玉がひとつ、どろりと流れ出る。目玉は床へと落ちて、ごろごろと転がった。 「ひっ……!」  悲鳴をあげそうになり、白雪は両手で口を覆った。  しかし、手元まで転がってきた目玉は、すぐさま霧となって消える。  まさか、幻影――夢か現か分からずに、白雪は自分の頬に触れた。 「痛っ……」  そこへ、衣擦れの音が耳に届く。 「三郎、やめろ!」  三郎へと手を伸ばした番頭めがけ、しゅるりと帯が舞い降りてきた。  帯は番頭の首に巻き付くと、じわじわと締め上げていく。 「ううっ」  三郎は、苦しむ番頭に見向きもしなかった。再び別の帯を手にし、ぶんと振り上げる。 「シンデクレタライイノニ……」 「嫌、やめて……」  白雪は床を這って逃れようとするが、思ったように体は動かない。 「シンデ……」  死にたくないと、心が叫んだ。  助けて――白雪の目に涙が溜まる。  再び三郎が帯で白雪を打とうとした時、白雪の眼前で、壁にぽっかりと穴が開いた。 「白雪様!」  穴から走り出てきたのは橙だ。目にも留まらぬ速さで体を回転させ、三郎へと蹴りを食らわす。ひらりと、橙の黒いワンピースが翻った。 「ぐはあっ!」  三郎のうめき声が轟く。数珠の紐が千切れ、玉が飛び散った。  急がなければ――三郎が床に沈むのを見届け、白雪は応接間を出て台所へ向かった。  口の中を切ったのか、血の味が広がる。じんじんと頬が痛む。それでも立ち止まることはしなかった。髪が乱れようと、着物の裾が広がろうと、かまわない。  幸いなのは、どれだけ走っても少しも胸が苦しくないことだ。  台所の戸棚から酢瓶を取り出し、白雪はすぐさま応接間へと舞い戻る。  まさに、橙が拳を振り上げ、ぐったりする三郎を仕留めようとしているところだった。 「待って!」  白雪は、三郎をかばうように立ちはだかる。 「白雪様、お退きになってください」  橙は冷え切った声で言う。 「待ってください。意識を取り戻せば、きっと」  白雪は酢瓶の栓を抜き、三郎の顔めがけてじゃばじゃばと注いだ。 「……がはっ、うぐっ」  三郎の口から、真っ黒な色をした粘り気の強い液体が、どろどろと吐き出される。液体はぬるりと頭と尻尾を生やし、やがて蛇の形になった。蛇の体に、織物の美しい模様が浮かび上がる。華やかな帯のような蛇が、床を勢いよく這っていった。 「待て!」  橙が素手で捕まえようと、蛇に飛びかかった。  しかし、蛇はするりとかわす。さらに、ぎゅっと体を縮ませたあと一気に伸ばし、高く跳ねた。蛇は窓を破り、雨が降りしきる庭へと逃げ出てしまった。
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