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空が深い藍色に染まり、瓦斯燈がひとつふたつと灯りはじめる。
「いったいいつまで俺は、ここで縛られてなきゃならないんですか?」
食堂の椅子に縄で縛り付けられた三郎は、悪びれる様子もなく言った。
その顔には、しっかりと目玉が二つはまっている。
「三郎、お前、本当に何も覚えていないのか?」
錦秋屋の番頭は、首に氷嚢を当てながら訊ねた。
しかし、縛り上げられたはずの番頭の首に、傷や痣は見当たらない。
妖魔というものは昼間にはあまり力を使えず、幻影を見せるくらいが関の山だという。
「三郎さんは、妖魔に取り憑かれていて意識がなかったのだから、仕方ありませんよ。ねえ、社長?」
藤は、三郎をかばうような口ぶりだ。
「ほ、本当に妖魔なんてものが、今もまだ?」
あの場にいた番頭でさえ、事態が飲み込めずにいるようである。
しかし薫は、ただ煩わしそうな表情で、頬杖をついているだけだった。
「わたしがいけないのです。門を開けてしまったわたしが……」
床に膝をついた白雪の腕を、薫が引き上げる。
「何をしようとしている?」
「あ……」
白雪は、夜子にするように平伏するつもりでいた。
番頭や三郎が責められるのではないかと思ったからだ。
「謝罪など望んでいないし、不愉快だ」
「も、申し訳……」
「だから、謝るな。いちいち、怯えるな」
白雪はびくりとして身を縮める。呆れ顔の薫を見て、藤がくすりとした。
「三郎さんが正気を取り戻したのは、白雪様のおかげだと橙から聞いています」
藤が言うと、三郎はうんざりしたような顔をする。
「頭から酢をぶっかけられて、さんざんだ」
「三郎!」
番頭は三郎の頭を軽く叩いた。藤が「まあまあ」と取りなす。
「しかし、なぜ、酢を?」
薫は白雪に訊ねた。
「父の書物に、酢は気付け薬になると記してありました。意識を失っているのなら、意識を取り戻せばいいのではないかと」
「へえ……意識をねえ」
興味深げに、薫はつぶやく。
「それにしてもどうして、うちの三郎が? こいつ、お祓いしてもらったほうがいいんでしょうか。つい先日、お寺さんにはお参りしてきたばかりなんですがねえ」
番頭は、拾い集めた数珠の玉を数えながら、困惑気味に言った。
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