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「いや、そちらには関係のないことだ。狙われたのは……とにかく、今日は帰ってもらってかまわない。うちの者に車で送らせる。運悪く追い剥ぎにでも襲われたと思って、今日のことは忘れたほうがいい」
一瞬、薫の目が紅く光った気がした。
三郎と番頭はしばらくぼんやりすると、はっとしたように顔を見合わる。
薫は「あとは頼む」と藤に指示をして、席を立った。
「そろそろ御暇するか」
番頭が頭を掻く。
「腹が減ったなあ」
藤に縄を解かれた三郎は、呑気に言った。
何事もなかったかのように帰り支度をはじめる二人に、白雪は違和感を覚える。
そこですぐさま、部屋を出た薫を追った。廊下を小走りで進み、咄嗟に声をあげる。
「旦那様!」
振り返った薫は、少し驚いたような顔をしていた。思いがけず大きな声が出たようだ。
「何だ?」
胸の前で手を握りしめ、白雪は息を整える。焦れることなく、薫は白雪の言葉を待っていた。
「妖魔はわたしを狙ったのですね」
白雪の表情は、悲しげに曇る。
「そうだろうな。蛇の形をした妖魔は、おそらく蛇神」
薫の言葉に、白雪はすうと息を吸った。
書物に描かれた、屏風にだらりと垂れ下がる蛇の絵を思い浮かべる。
「嫉妬や邪心の化身と言われる、あやかし……」
白雪は、そう口にしていた。
「知っているのか」
「はい」
「どうした、口が……」
薫の指が、白雪の口の端に触れる。
「さ、先程、床に倒れた時に切ったようです」
「妖魔のせいか」
「わたしが、ぼんやりしていたせいです」
すると薫が、ふっと目を細めた。
「白雪は、自分を傷つけた妖魔までもかばうのか」
「も、申し訳……あ、その……」
「もういい。その傷、見せてみろ」
薫の顔がぐっと寄ってきたことに、白雪は驚いて身構える。
「まだ、怖いか?」
「い、いいえ」
白雪の声はわずかに掠れた。
「嘘をつけ。怖いなら目を閉じていろ」
言われた通り、ぎゅっと目を瞑る。
しかし、口元に熱い息がかかり、居ても立ってもいられなくなった。
まさか、また術を使われるのだろうか――白雪は堪らず口を引き結ぶ。
「社長……おっと、お邪魔しました」
白雪が目を開けると、藤がきまり悪そうな顔をして、そこにいた。
「勘違いするな。傷を見てやっていただけだ」
薫は渋い顔をする。
「錦秋屋さんが、着物をどうするかと仰ってまして。誰かが社長の名を語って注文したようですが」
「代金を支払って、うちで全て引き取れ」
「じゃあ、お着物は……」
藤がちらりと白雪の表情を窺う。
「白雪のものだ。験が悪いというのなら、燃やせばいい」
「燃やすなんて……! 大切に着させていただきます」
白雪は、この時ばかりは、反射的に声をあげていた。すると薫は、満足そうな顔をする。
「好きにしろ。それから藤、白雪に塗り薬を」
「かしこまりました」
にやにやしながら自分を眺める藤に、白雪は身の置き場がなくなるのだった。
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