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「わ、わたし……」
「何だ?」
「何も忘れたくない……」
「えっ?」
白雪は薫のコートの袖をぎゅっと掴んだ。
「これまで……いつ消えるかも分からない命だと……覚悟しながら生きてきました……」
自分の体のことは、自分がよく分かっている。
やせ細って弱っていく母の姿を、最後まで見届けたからだろうか。
どんなに生きられても、母の年を越えることはないはずだと、白雪は早くから予感していた。
「きっと……短い命だから、一日一日がわたしには大切なのです。ひとつも忘れたくない……どうか奪わないでください……」
穏やかな森で、木漏れ日を浴びる時。
埃が積もった書棚から、書物を選び取る時。
美味しいオムレツを、はじめて口にした時。
不機嫌そうな顔つきの薫が、澄んだ声で名前を呼んでくれた時。
どの瞬間も、白雪には愛おしい。
「俺が奪おうとしていると?」
「わたし、何も要りません……だから、もう奪わないでください……」
なぜか、言葉が次から次へと溢れ出る。止めようとしても止まらなかった。
「そうか……」
すべてを許されたかのように、力強く抱きしめられる。
抗うことなく、ただ静かに白雪は身を委ねた。
「白雪、お前はこれまで、たくさんのものを奪われてきたのだな」
憐れむような声に、思わず涙がこぼれそうになる。
母との思い出も、生きることさえも、乱暴に奪われてきた。
いったいわたしが何をしたというのだろう――
ぐっと唇を噛み締め耐えていると、止まった時が動き出したかかのように、街の喧騒が戻ってきた。
色鮮やかな着物や、きらめく簪が目に飛び込んでくる。
背広を着た紳士は、物珍しそうにこちらを見ていた。
多くの人が訪れるデパートの真ん前で抱かれているのだと気付き、白雪は急に落ち着かなくなる。
「だ、旦那様」
「見くびっていたようだ。明蝶家のご令嬢には、俺の力が効かぬのか……」
「あ、あの……」
見上げれば、いつも通りの気難しい顔がある。どうやら、この状況下で戸惑っているのは白雪だけのようだ。
肩を押され、ゆっくりと体が離された。落としたパラソルを、薫が拾い上げる。
「安心しろ。奪うようなことはしない。しかし、藤から言われているからな。屋敷に閉じ込めっぱなしでは、白雪の気持ちも沈むだろうと」
「そんなことは」
「諦めて、今日は俺につきあえ。これは命令だ」
薫は白雪の手を握ると、やや強引にデパートの中へと進んでいくのだった。
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