四、銀座の街

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「わ、わたし……」 「何だ?」 「何も忘れたくない……」 「えっ?」  白雪は薫のコートの袖をぎゅっと掴んだ。 「これまで……いつ消えるかも分からない命だと……覚悟しながら生きてきました……」  自分の体のことは、自分がよく分かっている。  やせ細って弱っていく母の姿を、最後まで見届けたからだろうか。  どんなに生きられても、母の年を越えることはないはずだと、白雪は早くから予感していた。 「きっと……短い命だから、一日一日がわたしには大切なのです。ひとつも忘れたくない……どうか奪わないでください……」  穏やかな森で、木漏れ日を浴びる時。  埃が積もった書棚から、書物を選び取る時。  美味しいオムレツを、はじめて口にした時。  不機嫌そうな顔つきの薫が、澄んだ声で名前を呼んでくれた時。  どの瞬間も、白雪には愛おしい。 「俺が奪おうとしていると?」 「わたし、何も要りません……だから、もう奪わないでください……」  なぜか、言葉が次から次へと溢れ出る。止めようとしても止まらなかった。 「そうか……」  すべてを許されたかのように、力強く抱きしめられる。  抗うことなく、ただ静かに白雪は身を委ねた。 「白雪、お前はこれまで、たくさんのものを奪われてきたのだな」  憐れむような声に、思わず涙がこぼれそうになる。  母との思い出も、生きることさえも、乱暴に奪われてきた。  いったいわたしが何をしたというのだろう――  ぐっと唇を噛み締め耐えていると、止まった時が動き出したかかのように、街の喧騒が戻ってきた。  色鮮やかな着物や、きらめく簪が目に飛び込んでくる。  背広を着た紳士は、物珍しそうにこちらを見ていた。  多くの人が訪れるデパートの真ん前で抱かれているのだと気付き、白雪は急に落ち着かなくなる。 「だ、旦那様」 「見くびっていたようだ。明蝶家のご令嬢には、俺の力が効かぬのか……」 「あ、あの……」  見上げれば、いつも通りの気難しい顔がある。どうやら、この状況下で戸惑っているのは白雪だけのようだ。  肩を押され、ゆっくりと体が離された。落としたパラソルを、薫が拾い上げる。 「安心しろ。奪うようなことはしない。しかし、藤から言われているからな。屋敷に閉じ込めっぱなしでは、白雪の気持ちも沈むだろうと」 「そんなことは」 「諦めて、今日は俺につきあえ。これは命令だ」  薫は白雪の手を握ると、やや強引にデパートの中へと進んでいくのだった。
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