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◇◆◇
薫は白雪を屋敷へ送り届けたあと、再び一人、街へと戻った。
すでに日は傾きかけ、空は茜色と藍色が混じりはじめる。
気が急いているのか、薫は足早に石畳の橋を渡り切ると、すぐさま人通りの少ない路地へと入っていった。
薄暗い小径に、提灯に書き記された朱色の〝卜〟の文字が浮き上がる。
古びた引き戸を、薫は導かれるように開いた。
「これはこれは、冥世の皇子。お久しゅうございますな」
白い髭を生やした老爺が、待ち構えるかのように、小上がりになった畳の上で座していた。
壁には奇妙な掛け軸が掛かり、土間には引き出しの足りない箪笥が置かれ、天井からは五色の布が垂れ下がっている。また、文机の上には占いに使う筮竹があった。
相変わらず雑多な店内を見回して、薫は帽子を脱ぐ。
「皇子ではないと何度言えば分かるのだ。今は、不動と名乗っている。ただの商人だ」
「ご謙遜を。冥帝の直系で、母親は女鬼。先祖返りと噂の、絶大な妖力をお持ちであるのに」
「それが何だ。お前も今は、ただの占い師だろう?」
占い師は白い髭を撫でながら、にやりとする。
「どうして、そうまでして人のふりをするのでしょうか。さっさと術者の封印を解いてしまわればいいのに。我らもそろそろあちらへ帰りとうございますが」
「人世で生まれた俺が、人のふりをして何が悪い。冥世に帰りたければ、勝手に帰るがいい。皇族とはもはや無関係の、俺の知ったことではない」
薫は冷ややかな声で言った。
「ははは、面白い。物言いが、お父上とそっくりだ」
百年以上会っていない父の話をされたところで、虫酸が走るだけだ。
さも愉快そうに笑う占い師に、薫はだんまりを決め込む。
「さて、今日はどんな御用でしょうか」
仕切り直しとばかりに、占い師が文机をぽんと叩いた。
「俺の力のことだが、効かぬ相手がいるようだ。理由が分かるか?」
「効かぬ相手……さて? あなたの力を持って、効かぬ相手などおらぬでしょう。そもそも、木っ端の妖魔ならば恐れて近寄らないでしょうし、普段から、妖しの力を使って人を取り込み、事業をされているのでしょうし。この爺とて、皇子を前に油断はできません」
「人聞きの悪いことを言うな。商談でわざわざ力を使うようなことはしない」
不愉快そうに薫は眉を顰めた。
「そこまで、人の真似事をしたいのですか」
占い師は少々呆れているようである。
「俺の力が効かぬ相手は、妖魔ではないし、もはや人でもない」
戯言に付き合っている暇はないとばかりに、答えを急かすように薫は言った。
「それは……どのようなお相手で?」
「妻を娶ることになって……つまり、そういう相手だ」
「皇子が妻を娶られると! これは愉快だ」
またしても、占い師はけたけたと笑い出した。
ますます薫の顔つきは渋くなる。
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