一、甘い毒

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 ◇◆◇  ご一新から数十年、異国文化と伝統文化が融合し、新たな文化となって根付きつつある昨今。街には近代建築が溢れ、人の身なりは開放的なものへと変貌を遂げている。  しかし、自由を求める人々の声が大きくなる一方で、不自由を強いられ続ける令嬢の一日が、今日もはじまろうとしていた。  朝日に照らされ、帝都の片隅にある屋敷が茜色に染まっていく。  重厚な瓦葺(かわらぶき)屋根と品格ある漆喰の壁に守られた、木造二階建ての立派な屋敷だった。庭には石灯籠や景石が置かれ、季節ごとに彩りを変える樹木や草花が植えられている。  明蝶伯爵の一人娘、明蝶白雪(めいちょうしらゆき)は、女中の足音を聞き、窓のない納戸の暗がりの中で目を開けた。 「もう朝だわ。急がないと」  慌てて薄い布団から起き出すと、粗末な木綿の着物を纏い、長い黒髪を手早く束ねる。  実母の形見の守り袋を袂に入れるのも忘れない。守り袋の中には護符の木札がひとつ。ただし、貰い受けた時から、龍が彫られた木札は割れて欠けていた。  今日もつつがなく過ごせますように――袖に手を入れ、そっと守り袋に触れる。  白雪が実母を亡くしたのは、ずいぶんと幼い時だった。実母は体の弱い人で、白雪もまた、生まれつき虚弱である。  父はほどなくして再婚したが、美しい義母は、白雪を少しも愛そうとはしなかった。  数年前に父が病に伏し、義母が家を仕切るようになると、白雪は彼女からますます疎まれるようになる。部屋を奪われ、納戸に押し込められたのもこの頃だった。  大切にしていた実母の着物は売ったと言われた。  女学校は、お金がかかるからと退学させられてしまった。  困窮しているのは事実で、下働き以下として扱われるのも仕方ないと諦めている。  直に十九歳になるというのに、社交界でお披露目されることもないままで、もちろん縁談の話もない。  未来の旦那様はどんな方だろう。  わたしが知らないことを、たくさん知っている方だったらいいのに。  そんな女学校時代に描いた夢は、夢のまま消えかけていた。  とはいえ、ボロを着たところで、白雪は楚々としていた。  また、屋敷中の掃除から飯炊きまでこなす、辛抱強さや真面目さがあった。  ただし体が弱いのは相変わらずで、たびたび寝込んでは、義母を苛つかせている。  納戸を出た白雪は、「寒い」と身震いした。  暦はまだ秋だけれど、薄暗い朝はすでに凍える冬のようだ。  あかぎれだらけの荒れた手をこすりあわせ息を吐きかけるが、それでも指先はじんじんとしていた。  お勝手では、さっそく女中たちが朝餉の支度をはじめている。白雪も急いで米を研ぎ、屋敷の外にある竈門に薪をくべて火を起こした。  瓦斯(ガス)や水道はあるが、白雪は使わせてもらえない。井戸で水を汲むのも、仕事のひとつだった。 「白雪様、そんなことは私が……」  女中頭のキヨが、竈門で飯を炊く白雪のもとへやってくる。 「ありがとう。だけど大丈夫」  白雪は優しく微笑んだ。ただでさえ使用人が減り、手が足りていないはずだ。 「本当に、痛ましい……」  すると、キヨが悔しそうに口元を歪めた。  我が娘のように白雪の成長を見守ってくれていたキヨである。 「わたしのことは心配しないで」  だからこそ、白雪は心配をかけまいと、再び微笑むのだった。  お勝手へ戻り、炊けた飯をお櫃に移している最中だった。  荒々しい足音が近づいてくる。ギシギシと廊下の板が軋んでいた。  キヨの表情が引き締まると同時に、お勝手の扉が激しく開く。 「白雪はどこ?」  そこへ、義母の明蝶夜子(めいちょうやこ)があらわれた。上等な着物を纏い、美しく髪を結い上げ、妖艶な色香を漂わせている。夜子は、なぜか手鏡を手にしていた。
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