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ch.4 Moratorium
私の友人を紹介しよう。
太陽の申し子、怪異を討滅する人間側の最高戦力聖騎士様。今となってはそんな大それた肩書を持ってはいるが、そうはいいつつもともとそいつは近衛騎士の家系の子供だった。そこで近衛に収まらず、騎士の頂点である聖騎士にまで登り詰めてしまったというのだからさすがとしか言いようがない。登り詰めてしまったというのは文字通り、やってしまったという感が私の中では過分にしてあるが。
それはともかく。
それの名前はアイザック。私とは幼少期に同じ孤児院で過ごした幼馴染だった。
私の友人。唯一無二の親友というやつ。一生かけても返し切れないほどの大恩ある恩人。
何物にも侵されることなく生き抜いてほしいと切に願った大切な人。
けれど。
万が一、あいつが誰かの消費物に成り下がるくらいならば。
いっそのこと死んでくれ。
♦
私の家は何かがおかしかった。
模範的な家、とまではいかなくても、機能不全に陥っているようには側からだと見えなかったと思う。
内から見ればすぐさまわかる異常も、外から見ればなかなかわからないものだ。わからないからそのままじゅくじゅくと熟れて腐り落ちていく。そんな家だった。
ずっと若々しく美しくあり続ける母に、そんな母をいないものとする父。夜な夜な集まり、毎回顔ぶれが違う若い男性たち。若い男性に囲まれて夜には姿をくらまし、昼すぎまで姿を見せない母親。
今となれば、その時何が起こっていたかの大体の推測がつくけれど。物心つく前の私では知らない男に囲まれる母親が空恐ろしく感じるだけだった。
私の家は軍人の家系だった。父は厳格で、家の中までその性格が現れているような厳かさだった。
しかし、その中を自由に気ままに荒らし回っていた異物が母だった。よく言えば天衣無縫、悪く言えば売女。父が家にいようが居なかろうが、別邸に人を集め夜な夜な明かりが絶えない不気味な一角を作り出していた。
軍人らしく重々しく口を開かない父は母をいないものとして扱い、私の知る中では終ぞ言葉を交わしたところなんて見たことがなかった。
今思えばどうして堅物とも言える父があんな、男なら誰にでも手をかけるような母と結婚して子までなしたのか、ほとほと疑問に思う。
私の預かり知らないところで、私が知り得ないようなことが起こっていたのだろうけれど、そんな2人の間に生まれてしまった私としてはいい迷惑だった。呆れた、とも言える。
子供の頃、屋敷ではずっと1人だった。1人でいながらも周囲の大人をよく観察して過ごしていた。観察していたからと言って、顔色ばかりを窺って望まれるように振る舞っていたというわけではない。むしろ逆だった。
私の顔色を周りの大人が伺って、常に気にかけていた。
それは軍の将校であった父の威厳のおかげか、得体の知れない女怪と噂されていた母のせいなのか。そのどちらでもあり、どちらでもなかった。
もっともそれらしい理由を挙げるならば、あの父の娘であるくせに、あの母に異様に容姿が似ていて得体が知れず扱い方がわからない、といったところだろうか。
そんな大人の感情、事情を幼少期の子供にぶつけられたとて、到底飲み込めないし対応だってできかねる。
だから私は人の顔を伺った。伺って、それに叶う行いをするのではなく、ただ見て、見定めて、その裏の感情を読み取ろうと覗き込んでいた。
そんな母親譲りの不気味さを醸し出している娘のことなんて、当然父は顧みないわけで。母なんて私を産んだ次の日から男を連れ込んでいたというのだから、いっそ見事だという他ない。
親を親とも思わなくなったのは、物心つく前だったように思う。最初から、はなから、親にも誰にも期待なんてしていなかった。
私を見る全員の目が、全てが、最初から嫌いだった。
♦︎
先ほども言ったが、私の家は軍人の家系だった。つまりは男系。男でなければ家は継げず、男でなければ戦争の役にも立たない。
女であるというだけで排除こそされずとも、いてもいなくてもどうでも良いものとして扱われた。
だから、というわけではないが、いささか自由がきいた。その自由を謳歌しすぎていたのが私の母だったが。それはもういい。
いいのだけれど、その母と私を同列に扱われるのは子供ながらでも我慢ならなかった。
母が侍らせていた男たちは皆一様に私を見ると、下卑たツラを浮かべ母に似ていると褒めそやした。きっと母のようになるだろう、気立てよく妖艶に育つだろうと。間違っても物心つく前の子供に向けるような言葉ではなく。
それが何より気持ち悪かった。
私を通して母を見る目が、母を通して己の欲を隠そうともしない目が。最高に気持ち悪くて最悪だった。
だから、私に関しての興味をとうに失っていた父が思い出したかのように私を孤児院へと追いやったのは、まさに渡に船だった。
あの家から、男たちから、母から、堂々と逃げ出す口実ができたのだから。
父が私を孤児院へ送ったのはただの奉仕活動の一環に体よく私があてがわれただけだった。富裕者は市民へと自発的な奉仕をすることが社会的な機構として求められていた。その一つとして、自身の子を孤児院へと送り孤児らの世話をさせるという奉仕活動があった。たとえ家の建前のためだとしても、あの家から離れられるのであればなんだってよかった。
11歳になった歳の夏、私は自分の家からわざとらしく遠く離れた孤児院へと預けられることとなった。
♦︎
「オルドレット、お前はなんでそんなところにいるんだ」
「いいじゃない。高いところに行ってみたかったのだもの。降りれなくなるなんて、その時は思ってなかったのよ」
だから降ろして、と下から無表情でこちらを見上げている奴に言うと、そいつは首を傾げながらもすぐさま手を貸してくれたのだった。
富裕者の子息の役目は孤児院での奉公といったが、何もそれは私の家に限ったことではない。他の貴族、騎士の家系でも同様に言えたことだった。
私が預けられた孤児院に、まさしく私と同時期に同様の理由で預けられた奴がいた。
アイザック。
それがそいつの名前だった。年は私と同じ。代々近衞騎士の家系であり、そこの唯一の嫡子だった。緩く跳ねた青髪と全てを灼く太陽のような濃い橙の目を持っていた。微塵も表情筋を動かさず、冷たく凪いだ目を通して常に眼前のものを見据え、子供らしからぬ物々しい雰囲気をした奴だった。
なんだか打っても響かなそうな印象のやつだとは思った。が、同い年、同じ時期に孤児院に来たと言うこともあり、年下の子の世話なんてはなから頭になかった私は常にそいつにちょっかいという名の手の込んだ悪戯を仕掛けて遊んでいた。
「この人形はライラが気に入っていたものだから、こんなことをしたら後で怒られるんじゃないか」
典型的なドアを開けたらクマの人形が飛んでくるような仕掛けを施してみたり。
「俺の食事で実験するのはいいが、俺にお前が期待するような味覚はないぞ」
あいつの食事に調味料をめちゃくちゃに入れてみたり。
「オルドレット、先生がお前を探し回っていたぞ。わかりやすいところに隠れるのはいいが、できれば自分から出てくるんだな」
私を探すあいつから逃げ回ってみたり。
まあ、とにかく色々やった。色々やってはみたが、ドアに仕掛けた人形は造作もなく対処され、劇物となった食事を食わせてもケロリとした顔で完食し、あいつから逃げ回っててはみたもののなぜかものの数分で見つかり、戦績としては全敗だった。
しかも私が何をしたってあいつの表情は鉄面皮から崩れることはなく、相変わらずの無機質な目で淡々とこちらを対処するのみだった。
あまりにもこちらを意に介さずにいるものだから、だんだんとこちらも躍起になってまたさらに色々なことをやった。その後も試行錯誤を繰り返しやってはみたが、後になって振り返れば私のやらかしの不始末をあいつが全てなんとかしてきたようなもので、思い出してみると頭を抱えたくなるようなことばかりだった。
猫が木の上にいたから登ってみたら降りれなくなった、なんて本当くだらないにも程がある私のやらかしの一つだった。
でもあいつは、そんな私の様々なやらかしもとい悪戯を無視することなく全てに対処してみせた。淡々と、機械的にではあったが、蔑ろにされるなんてことはたったの一度もなかった。
それが私には嬉しかった。
いつも何をやっているんだとばかりに、微かに首を傾げながら私を見やるあいつの姿は、屋敷にいた奴らの私をみる目とは全く異なるものだった。
あいつからしてみれば、私は勝手にこちらに絡んで何かしらのトラブルを持ち込む厄介極まりない存在だっただろう。
だけど母も父も介さずに、欲も何も孕まず、私だけをみてくれていた。私だけを見て、私だけのために対応してくれていた。
それが嬉しくて物珍しくて、私はあいつに悪戯なしによく絡むようになった。
♦︎
ある時、孤児院の子供が1人行方不明になった。昼までは外で遊んでいたというのが、友人らの証言なのだが、その後の詳細が掴めない。大人たちの捜索は孤児院近くの森にまで範囲を拡大し夜間際まで及んだものの、収穫は全くない状態だった。
孤児院周辺は都市部からはかなり離れ田舎と言っていい地域だった。当然、孤児院から離れれば治安は悪くなるし野生動物も怪異も出る。安全とは程遠い環境だった。
このままでは行方知らずの子供の安否はかなり危ういと思われていた。しかし、夜も深まり大人でさえも出歩くのが危険な時間帯。
これ以上打てる手はなかった。捜索は次の朝に持ち越しということに、一先ずはまとまったのであった。
しかしその夜、もう1人孤児院から子供が行方をくらませようとしていた。しかも誰にも気づかれずに。もちろん私以外には。
「お前、何してる。私が言えたことではないけれど、消灯時間はとうに過ぎてるし、今外に出てなんだっていうんだ」
「ネモを探しに行く」
ネモというのは件の昼間から行方不明になったこの名前であり、現在私の目の前で夜の孤児院から脱走しようとしているのは夜闇の中でも橙の目を瞬かせるあいつだった。
「オルドレット。お前こそなぜ、この時間に部屋から出ている。規則違反だぞ」
「私にとってこの時間は散歩の時間なんでね。毎夜と言わずともよく外には出てるの」
そういうと、知ってると返された。なんなんだ。自分のことは棚に上げといてよくもまた言い切ったものだった。しかもなぜバレている。
「俺が言いたいのは、なぜお前が俺について外に出ようとしているのかということだ」
「あの子を探しに行くんでしょう。1人より人数いた方が見つかるかもしれないだろうが。それに夜の外は好きだから」
ふうん、とよくわからないと言った顔をしながらもそいつは私の同行を許可してくれた。あいつが許そうが許さなかろうがついて行くつもりではあったが。だって夜に内緒で脱走なんて面白そうだし。
「あの子がどこにいるのか当てはあるの?」
「ある」
随分とはっきり言い切られたことに俄かに驚く。だって、昼間から散々大人たちがあんなに探していたのに見つからなかったのだ。見つからなかったどころか、痕跡一つ探し当てられなかった。なのにこいつには居場所までもわかるという。
探すならば夜である今でなければならないらしいが、ずんずんと迷いなく森へと向かうそいつの後をついて行く。一応離れないようにしてはおくものの、星明かりも通らない黒い森は、目を凝らしても前方の背中を追いかけるのは中々に難しかった。
だからだろうか。唐突に立ち止まったそいつの背に勢いよくぶつかった。
「うわ、ちょっと。何」
「何か聞こえないか」
「は?」
「何か聞こえないか?」
「それは聞こえてる」
言われて耳を澄ますと、微かに子供の泣き声が聞こえた。啜り泣くようなそれは、草木を踏み分ける足音に容易くかき消されるほど小さいものだった。
「こっちだ」
速度を上げて進み出すそいつに必死について行く。しかし暗闇の中、足元の根や枝木に阻まれ、中々追いつけずに徐々にそいつと距離が開いていく。
このまま逸れるとまずいことは、夜の森の恐怖心も相まって直感的にわかった。
「待って!」
我慢できず声を出したと同時に腕を掴まれた。びくりと体をこわばらせたが、よくよくみるとそれはそいつの腕で、こちらがはぐれそうなことを察知して戻ってきてくれたらしい。
そのまま手を繋いで夜の森を、泣き声を辿りひたすら歩いた。
声は歩くほど確実に大きくなり、ついには森で一際大きく枝葉を伸ばした大木の根元に辿り着いた。
そこに蹲って泣いていたのは、間違えようもなく行方不明になった子供だった。
「ネモだな。歩けるか?怪我は?」
泣き止ませることよりも現状確認を最優先して質問をぶつけるそいつ。
子供の方といえば、見覚えのある年長者を見て安堵からか、さらに泣き声を大きくさせていた。
泣いていてはわからないだろうと、無表情に見下ろすそいつをとりあえずは置いといて、まずはその子を落ち着かせることにした。
なんでもよくわからない、というのがその子の言だった。昼間、森の木陰に入ったと思ったらその途端に来たはずの入り口がわからなくなり、そのまま出口を探して彷徨い続けていたら夜になってしまったらしい。
出口がわからない、と聞いてはっとする。そういえば自分たちの帰り道はどうなっている。
迷いなくあいつが歩き出すものだから、何も考えずここまでついてきてしまったが、足を怪我したらしいこの子を連れてどうやってここから帰ったものか。
「とりあえず、お前は俺がおぶろう。帰るぞ」
さもなんでもないかのように帰ろうとするそいつを見ていたら、なんだかどうでもよくなってきた。まあ、なんとかなるだろう。
ただ、そう楽観的に考えるのはいささか時期尚早だった。
♦︎
「ズオオオグオギュオオオオォォォ!!」
「あれ!何?!」
「レーシーだな」
「レーシー?!?」
探し人を救助してさて帰ろうという時になって、突然森の奥から枯れ木と枝葉を纏った大岩ほどもある翁のような化け物が叫び声をあげ追いかけてきた。本体であろう塊からは蔓や枝を伸ばしこちらを明らかに捉えようとしている。
現在、専ら全速力でそのレーシーから逃げているまっ最中だった。
おぶられた子は怖さからか、そいつの背にしがみついて顔を上げようともせず震えている。小さい子だから無理はないが、これはもう自分たちでなんとかしなければならないだろう。だけど、どうやって。
「レーシーって何?」
「森の怪異だ。入り込んだものを迷わせて、森に取り込んでしまうんだ」
「捕まったらまずい?」
「当たり前だろう」
子を1人おぶったままの全力疾走でも、息を乱す様子がないのは頼もしいというより、なんだこいつという感じで淡々と怪異の解説をされても困るが、こいつはアレの正体を知っているようだった。だから助けるあてがあるとここまできたのだろうか。
「このままじゃもたないって。なんとかしないと。弱点とかないの?」
「レーシーに対する解決策は簡単だ。だけど、この状態だとそれもできない。何か足止めをするものがあればいいが」
「足止めができればいいのね?」
再々言うが、私の家は軍家だ。つまり軍の装備が蓄えられており、それをくすねることは決して難しくはなかった。
「目を閉じて!」
全速力で走っていた足を止めて、くるりと後ろを振り向く。そして目前まで追いかけてきていたレーシーに向かって、私は閃光弾を思い切り振り投げた。
怪異は夜から這い寄るもの。ならばその弱点は共通して光であるはずだ。
途端、眩い光があたりに炸裂し、レーシーは動きを止めその場に蹲り痙攣し動かなくなった。
「こっちだ」
ちゃんと片目を閉じていたらしいそいつは、光が収まるとすぐさま私の手を引きその場から離れた。
「なぜ、閃光弾なんて持っている」
「家からパクった」
「なぜ、今この場に持っているのかと聞いてる」
「夜の散歩って危ないじゃない。何か身を守るものでもないとって思って」
なるほどと、頷き質問が済んだらしいそいつはいきなり靴を脱ぎ出した。
「え、何してるの」
「レーシーの対策は簡単だと言っただろう」
レーシーは森に入り込んだものの方向感覚を奪い混乱させ、出口を見失わせる怪異。その基準となるのは足。つまりは靴らしい。
「靴を左右逆に履いてしまうんだ。そうすればレーシー自体が混乱させるべき基準に惑って、森をさ迷わせることはできなくなる」
そいつの言う通り3人とも靴を左右逆に履き替えてから、周囲を見回すと呆気なく入ってきた森の入り口が見つかった。
解決策がわかればそんなものなのかと、なんだか拍子抜けしてしまった。
わからなければ何もできずに取り込まれるのがオチだが。
それから孤児院に戻り、大人たちには感謝こそされずこっぴどく怒られ、夜の森での冒険は酷く苦々しい終わりを迎えた。
助けた子にはそれはそれは感謝されたが、私は小さい子が苦手だからこれ以上の面倒はごめんだった。どうかもうあんなことにならないよう気をつけてくれ。
しかし、この夜の一件からあいつ、アイザックとはよく話すようになりお互いに友人とまで呼べるほどの仲へと至った。
♦︎
「アイズ構えー」
「今本読んでるから無理」
ここは図書室。床に座って本を読んでいるこいつの背に背中合わせでもたれかかって体重をかける。いくらぐいぐい押してもびくともしない。本当に何なんだ。
ちなみにアイズというのは私が考えたこいつのあだ名だった。アイザックなんて長すぎる。
読書の邪魔をするわけではないが、肩を掴んでがくがく揺らしてみてもあしらわれ方は変わらなかった。そんなに本って面白いか?
あいつと友人になってわかったことがいくつかある。
こいつは恐ろしく頭がいいやつだった。地頭がいい天才というやつだ。それ以上の何かかもしれない。一度読んだもの、見たものは絶対に忘れない。何より空恐ろしいと感じるのは、そいつが持つ観察力とそこから組み立てる推論だった。
入手した情報を精査し組み合わせることで、ほぼ予言とも取れるような推測を立てることができた。
ただ、これまでのことからわかるように表情筋は死んでるし、他人の情緒の機微にはさっぱりなようだった。
頭は柔軟で融通が効かないというわけでもないが、自分と他人との差異を具に観察し、その差異を自身の中で咀嚼し模倣することで人間に擬態しているようなやつだった。
その観察眼で異物である自分と他者を比較し、どうすれば齟齬が生じないか考えそれを即座に自身に反映し改善を繰り返していた。
だからあいつの中身は空っぽといえば、空っぽだった。虚な穴というよりかは、何も入っていない真っ白な大きな器。
しかも、自身に中身がないことにひどく自覚的であり、その自身の軸を他人に依存することをよしとしていた。そいつ自身の在り方を、他者への奉仕のためと定義づけていた。困っている人間がいれば助けることは当たり前ですらない。そいつにとっては酷く機械的な作業ともとれる。騎士の家系らしいといえば、それも騎士道精神なのだろうが、私はいささかそれが気に入らなかった。
「お前、笑わないよなー」
「笑ったほうがいいか」
「お前が笑いたくならならやめて」
そんな、人間というよりかは高性能な演算機のような友人が私は好ましかった。母親の周りにいた男たちとは似ても似つかないその性質が酷く心地よかった。
欲を感じ取らせず、行動だけを見れば高潔な聖人で人間なのに人間味のない不可侵なもの。それが私が抱いたその友人の印象だった。
♦︎
「何の本読んでるの」
「怪異の本」
「何が書いてあるの」
「吸血鬼」
自分で読めばいいと言えばいいのに、聞いたことに律儀に答えてくれることに口角が上がってしまう。
怪異の本を読んでいるのはそうなのだろうが、その隣には天文学の本や物理学の本も開きっぱなしで置かれており、時折パラパラと捲られている。まさか同時に読んでいるのではあるまいな。
さても吸血鬼。そうか吸血鬼。
「私の家に吸血鬼について書かれた日記があったな」
「日記?」
「すごく古いもので、私もそれを隠し部屋で見つけたんだ」
私が家にいたとてやることはなく、暇を持て余した子供がすることは家の探検くらいだった。なので、館の隅々まで歩き回っていたところ、図書館に隠し部屋を見つけたのだ。
そこは本棚と書き物机に簡素なベッドしかないお世辞にも広いとはいえない部屋ではあったが、不思議と屋敷のどこよりも安らぐ雰囲気があった。だからしばしばそこに逃げ込んで長い時間を過ごしたものだった。
古い日記はそこの本棚で見つけたものだった。長い年月にわたって書かれていたもののようで何冊も置いてあった。
何日も通って日記を読み進めていてわかったことは、その日記が約数百年前のものであるということ。持ち主がこの軍家の女性であるということ。
そして、吸血鬼に嫁いだということだった。
「吸血鬼に嫁いだ?」
「そう。ガレッタって女の人なんだけど、体がすごく弱くて、あの部屋に閉じ込められていたみたい。それを吸血鬼が連れ出してくれたらしい」
日記の文体は非常に穏やかで理知的であり、その女性の品の良さが至る所に垣間見れた。それと同時に軟禁生活と彼女自身の容体の酷さも克明に記されていた。
あの日記から察するに、吸血鬼とあの館から出たとしても長くは持たなかっただろう。
「そんな話があるのか」
知らなかった、とそいつはまた本に目を戻す。私もそのまま本を読み続けるそいつを眺めていたが、そんな長閑な時間は唐突に終わることになる。
ガチャリと図書室の扉が開かれ、孤児院の先生の1人が顔を覗かせた。
「オルドレット?お母様がいらっしゃっていますよ。お顔を見せてあげなさい」
♦︎
父は私に無関心。ならば母はというと、無関心とは言わないまでも、いるならいる、いないならいないでそれでいい。そういうスタンスだと思っていたが、どうやら実際はそうではなかったらしい。
なぜ今になって遥々遠くから私に会いにきたのか、その理由なんて皆目見当もつかなかった。
なぜ、とか、それらしい理由を考えては見たもののとにかく私はあの女には会いたくない。それがいの一番に思ったことだった。
途端に挙動不審になった私を見て、そいつも流石に何かあると思ったらしい。
「オルドレット。どうした。母親に会わないのか」
会う、会わないではない。会いたくないのだ。押し黙る私を見て、さらに問いかける。
「会いたくない理由でもあるのか。とにかく落ち着け、頼むから俺にわかるように言ってくれ。出ないと俺はお前に何もしてやれない」
理由はあることにはあるが、その理由を話すと、私がこいつを気に入っている理由までもバレてしまう気がしてそれが嫌でまたしても押し黙りそうになる。
「絶対に、会いたくないんだ」
どうにかして絞り出したそれをどう解釈したのか知らないが、そいつはすぐさま立ち上がって手を差し出してきた。
「会いたくないなら、逃げればいい。手を貸してやる」
♦︎
「お前の母親にさっき会ってきたが、何というか凄まじい人だな。自己顕示欲の塊、自分の思い通りにならないと気が済まないってタイプの人間だ。そのくせ自尊心と自己肯定感が高い」
「お前のそういう、率直で的確に言ってくれるとこ私は好きだよ」
今は食堂裏の木陰に2人で隠れている。アイズによれば、今私の母親は図書室で私を探しているらしい。
このまま母親が帰るまで出会わないように、お互いに孤児院内を移動し続ければいいというそいつからの提案だった。
「そろそろこっちにくるだろう。右回りで礼拝室に行こう」
始終こんな感じでそいつに手を引かれ、孤児院内をぐるぐると隠れ鬼の如く逃げ回っていた。なぜ、数分会っただけであの母親の動向を正確に把握できるのか疑問ではあるがこいつなら、まあできるのだろう。
結局、その日私の母は私に会うことを諦め夕方には帰って行った。
「助かった……」
ふうと、たまらず息をつく。あの女に今あったところで碌なことにならないのは火を見るより明らかだ。触らぬ神に祟りなし。合わないのに越したことはない。
「今日のところはとりあえず、凌げたな」
今日一日、ずっと私と一緒にガイドをしながら逃げ回ってくれた友人は何やらまだ考えているようだった。
「ありがとう。本当に助かった。私1人じゃ無理だった」
「そうか……」
なおも考える友人。
こいつが考える範囲は広すぎて、こちらが推測できる枠を遥かに超えている。何を考えているかなんて考えるだけ無駄なのかもしれない。
「なあ、オルドレット」
思考をやめ、こちらをまっすぐに見やる目はいつもの貫くような視線ではなかった。私を見る目はそいつらしくもなく揺れ動いていた。
「今夜、ここを抜け出さないか」
♦︎
レーシーの一件を除いて夜中無断外出なんてしない優等生が、突然何を言い出すのかと驚いた。聞けば行きたい場所があるらしい。
どうしても夜出ないといけないのかと問えば、そうらしい。
まあ、私としては夜の無断外出なんて手慣れたものだから今更なんだってことはないが、それに友人が加わるとなるとわけもなくソワソワしてしまう。
どこに何をしに行くのだろうか。
「来たな」
待ち合わせたわけもなく、同じ時間に寮の前で落ち合った。
「どこ行くの」
「こっちだ。少し歩く」
ん、と首を傾げれば月明かりの中、少し遠くの建物を指さされる。そこは、すでに廃墟と化した星見台だった。
目的地まで黙って歩き、星見台についてからもぐるぐるとした螺旋階段を黙って登った。こいつは一体何がしたくて私を連れてきたのだろうか。
行きの道も草木が空を隠し、登り階段も当然ランプなんて灯っていないわけで微かな月明かりでしか周囲を見渡せない。
薄暗い中を目の前の背中だけを追いかけて進んでいくと、なんだか頭の中までぐるぐるしてきそうだった。
「着いた」
その言葉と共に、唐突に視界がひらけた。
顔を上げるだけでわかる。満天の夜空だった。
星見台の最上階はガラスなんて嵌め込まれていない大きな石の窓枠が、円形の部屋にぐるりと何個も作られていた。
天井はとうに崩れ落ち、星空が満開に広がっている。
その中でも一際大きな窓に近寄ると、先ほどまで欠片も見えなかった星空がよく見えた。月は手が届きそうなほど大きく丸く、星は目を閉じるのが惜しいほど煌めいて無数の光を散りばめていた。
「……すごい」
こんな高さからの星見は初めてだった。見たこともない天然の夜の眩さに惚けるしかない。
「俺は、星が好きなんだ」
隣で夜空を眺めていたそいつの言葉に、ばっとつい顔をむけてしまう。
こいつに好きとか嫌いとか、そういう感情があったのか。てっきりそんなものさえないのかと。
そういえば天文学の本はよく読んでいたような。
「お前は知らないだろうが、俺だってよく夜に外に出てたんだ。そしてここでよく星を見てた」
「知らなかった……」
本当に知らなかった。夜間外出は自分だけの特権だと思っていたのもあり、何だか出し抜かれたような気持ちになる。
私の知らないこいつを知れたことが嬉しいような悔しいような、何とも言えない気持ちになる。
しかしならばなぜ、私をここに連れてきたのだろう。1人でこっそりくるような大事な場所に。
「俺は、もう暫くしたらここから出ていくことになる」
「は?」
寝耳に水どころではない。今なんて言ったんだこいつ。
「俺の家は近衞騎士の家系だろう。そろそろ家に戻って騎士の訓練を積まないといけない。それに、今代の聖騎士様が稽古を見てくれるかもしれないらしいんだ」
「……そうなんだ」
考えればわかることではあった。いつまでも子供ではいられない。ずっとはここにはいられない。いつかは家に戻る時が来る。私だってそうだ。それがもう来てしまったというだけのこと。
「いつ」
「まだ、当分は。だけど、」
と、そいつは言葉を切って夜空を映していた目を私に向ける。
「その前にお前が問題だ」
「はい?」
「お前は自分が被る害において、他人に対する警戒も対処もできて無さすぎる。母親のことにしたってそうだ。俺がいなかったらどうするつもりだ。会うわけにはいかないんだろう」
「……そうだけど」
「なら、俺はここを出ていく前に、お前にお前が身を守れるだけのことを教えよう」
「同い年のくせに」
「同い年のくせにできてないのはどっちだ?」
「うるさいな」
何となく不貞腐れて窓枠にもたれかかる。わかってる。こいつがいないと私が何もできないことくらいは。
だけど、それは。それをしてしまったら。
「オルドレット。お前が心配なんだ」
本当にお前はいなくなってしまうじゃないか。
「お前を1人にすると碌なことにならないのは想像に難くない。まずむやみやたらに他人に発砲するなよ」
「私を何だと思ってるんだ」
しかも何で拳銃隠し持ってることまでバレてるんだ。
「いうべきことは言った。帰るぞ」
行きと同様、唐突に帰りを切り出される。
結局本当に、
「なんで、私をここに連れてきたんだ」
そういうと、眩しい月明かりの中、無表情なそいつの顔が初めて動いた。
少し困ったような顔をして、泣き笑いのような顔に変わった。表情を作り慣れていない不自然な迷子のような顔だった。
「いなくなる前に。お前と、ここに来たいと思ったんだ」
何でだろうな、と。
そう言ってそいつはこちらを待たずさっさと階段を降りて行ってしまった。
何なんだ。そんなこと。そんなことを言われてしまったら。
「この後、何て顔をして会えばいいんだ……」
この後またすぐに落ち合うというのに、顔を覆って夜の冷たい風で顔を冷まそうにも、しばらくの間顔は熱ったままだった。
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