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ch.1 Odette
私の隣人を紹介しよう。
強いて紹介する必要は何も感じないけれど、こうでもしてあいつのことを整理しないと、私だってあいつをどうしていいのかわからない。とりあえずどう呼んで良いかすらわからないから、隣人で妥協する。
あいつ、夜における私の隣人。影の王様、吸血鬼。己を壊し続けるどうしようも無いろくでなし。なのに月の写し身のように綺麗で、いつのまにか隣にいる事が当たり前になってしまった。
私のことを好きだというくせに、私の深いとこは触れずに自分のことも話さない。屑のくせに私に甘すぎるし、自分の内面がひどい有様だということに過剰なほどに自覚的。
何を考えてるかわからない胡散臭い笑みを貼り付けているにもかかわらず、私が嫌がることは絶対にしてこないし、過剰なほど配慮して触れてくる。
気分屋というより情緒が崩壊しきっていて、テンションで人格がほぼ変わる。幼子となんら変わらないと思えば、次の瞬間には人間ではありえないほどに達観したことを言う。
そんなところが全て無性に腹が立つし、どうしてやろうかという気になってくる。
ここまであいつに対して暴言しか吐いてない気がする。
褒めるべきところも当然あることはある。とりあえず容姿がいい。ふわりとした長い金髪と鋭い目。今まであった中でも1番と言えるほど美人だと思う。
あとは猫になれる。そんなところだろうか。
あいつとはどこで知り合ったのだっけ。気づいた時には、あいつの城のベッドで一緒に眠るようになってしまっていたのだけれど。
手は出されていないし、出されるつもりもないから貞操観念の緩さの問題ではないと思う。流石に今の私は昔程だらしなくはないはずだと思いたい。
まず私は体温のある人間が嫌いだ。その中でも特に男が嫌い。一人残らずいなくなればいいと思う。そう常々殺意を向けながら過ごしている。そして、あいつも吸血鬼ではあるが男性だった。
当然その時点でもう嫌いなのだけど、さっきも言ったがよりにもよってあいつは人ではなく吸血鬼だった。
吸血鬼はそもそも死んでいるが故のアンデット。体温なんてものは、はなからなかったようだった。
触れるとありえないほどに冷たくて、でもそうでもないと私はアイツを許容できなかった。不快感を感じないというだけでも、見る者全てに嫌悪感を持ち合わせるこちらにとっては稀なことではあった。
話が逸れた。どこであいつを知ったのかという話だった。
私の仕事場にあいつが来て、というよりは私がいた街にあいつがたまたま食事をしに来ていた。
食事、アイツが喰らうのは人間だった。
血液だけでは膨大な力を持つ吸血鬼を動かすにはいささか足りず、それこそ人間の血肉を丸ごと糧にしていた。
通常の感性を持つ人間であれば震え上がるような話だろう。人間を捕食する上位存在がいるなんて、食物連鎖の頂点に立っていると自負する人間にとってはあってはならない脅威だ。
しかし、あいつの食事風景は私にとっては胸のすくもので、他者への蹂躙という名の八つ当たりともいえる私の願望も入っていたために見ていて不快なものではなかった。
不快と感じない、やはりこの点が私があいつを許容できた理由なのかもしれない。どうしようもないクズという点も含めてだ。
もっと言いたいこと、もとい文句を言いたいところはたくさんあるが、この辺りであいつの紹介は締めたいと思う。これ以上言葉を重ねても、私の気分を害することにしかならない。
最後にあいつの名前を伝えておこう。怪異の個体名は、特にその頂点に君臨するほどの力を持つ王と呼ばれる存在の名前はあまり流布させるものでは無いが、そんなことどうでもいい。
本当なら名前すら言いたく無い。
あいつは私にどうしても名前を呼ばれたいようだけど、こちらとしてはまずもって呼ぶつもりなんてないし、その必要も感じない。
あいつの名前なんて、もし本当に本人の前で口にしてしまったら。私はどんな顔をしてしまうのだろうか。見苦しくてやってられない。自害してしまいそう、というかするだろう。私なら。
それはともかく。
ギルベルト。
それが私が惚れてしまった、鬼の名前。
どうしようもなく好きになって、はしたなく手を掴んでしまった、私の欲の末路。
己自身に向けた不快感を飲み込んでも、私はあいつが欲しかった。
♦︎
怪異は夜から来るものだった。
真昼を闊歩し謳歌する人間を暗闇より攫い喰らう夜のもの。夜に外を出歩こうものならば、人ならざる怪異に相対し気が触れてしまう。そうならないのはすでに気が触れた犯罪者か、夜に魅入られた者だけ。だから夜は家から出てはならないし、出るならば相応の覚悟と準備を持たなければならない。
吸血鬼、魔女に悪魔に始まり、出会ったならばまず生きては帰ってこれない脅威。幼子でも知っている不文律。
これは私が存在するこの世の常識。怪異にまつわる御伽話はそのまま身をもって知る忠告であり、人間を間引く上位存在ともいえるものだった。
はじめこそ蹂躙されるばかりであった人間であったが、徐々に対抗策を講じ出した。そして怪異と人間は何度もお互いの領分のために争い、人間側は教会という徒党を組んで怪異に対抗しはじめた。
神を祭り上げ、聖女を人柱に、兵器ともなる聖騎士を作り上げた。神を頂点に据えた教会は怪異に対抗する武力である騎士団を有し、日々いなくなるはずのない怪異討伐に精を出している。
私も昔、一時期聖女の世話になったことがあり教会にいたことがあった。しかし欺瞞と空想で作られたハリボテのような機関に早々と見切りをつけて出ていったが。
何もできずに1人でいた私を見出したのは聖女だった。だからなんだと今ならば思うし、そこに恩を感じることもないが、聖女が私をみとめた理由は私の容姿にあった。
私は子供の頃から容姿には恵まれていた。肩口で短く前下がりに切り揃えた黒髪に、最悪な目つきを作る瞳は紫色。忌々しく美しい母親そっくりに育った私は、幼少期から人の目を惹き悪目立ちをしていた。そのせいで何度もひどい目にあったが、今はその話はどうでもいい。
聖女に見出され、しばらく教会にいたのちに私は教会から行方をくらまし、転々と住処を変え、何者にも自分を捕らわれないよう過ごしてきた。
教会の本部である白い塔から遠く離れた地。柔らかな色をした可愛らしい石造りの家々が連なり、周囲の自然を切り取り作られた箱庭のような街があった。道に敷かれた石畳は様々な紋様を描いて歩くものの目楽しませ、そこに軒を連ねた店は色とりどりの品物を振る舞っている。太陽が天にあるうちは人の笑い声と足音が絶えない。
その時教会から逃げ出した私がいたのはそんな、絵に描いたような賑やかな日常が過ぎていく街だった。
街の中でも一際大きく、なおかつ砦かのように堅牢に作られた建物がある。ある者は贅沢で不要なものと切り捨て、ある者は知識の源泉だと喜んで足を運んだ。
絵画、彫刻、稀覯本。この世の知識を財として蓄える稀有な場所。日常の延長でありながら、非日常が混在する奇特な場所。
博物館。開け放たれた扉は足を踏み入れた盗人以外のどんな者をも歓迎した。そんな大衆の生活から切り取られた場所が私の仕事場だった。
「オルドレット。そろそろ閉館時間になるから、館内に誰か残っていないか見回ってきてくれないかしら」
太陽はとうに役目を終え月明かりが差し込む薄暗い部屋。ランプの灯りを頼りに何色もの青のグラデーションと睨み合っていた目を声の方へと向ける。
声は聞き馴染みのあるもので、この博物館の館長である女性が発したものだった。
「その絵画も、もう少しで修復が済みそうね」
「明日には終了するかと」
「充分よ。見回りが終わったら、貴女ももう帰りなさい」
手伝いに行かないと、とそう言い残して女性はパタパタと慌ただしくどこかへ去っていった。まだ館長としての仕事が残っているのだろう。
時計を見ると、閉館時刻ではあるが終業時刻にはまだ早く、私以外の学芸員もまだ何かしらの作業に追われているのだと予想がつく。
館長である先ほどの彼女ならまだしも、他の学芸員や来館者、ましてや男性に帰る前にエンカウントするのも面倒だった。しかしさっさと仕事を終えて帰ろうと、先程まで行っていた絵画の修復作業の道具を素早く片付け、館内の見回りへと向かった。
ロマン、写実、抽象と区分ごとにまとめられている絵画たちの間を縫うように歩く。
来館者はあらかた家路についたようで、道中誰かと出会うことはなかった。
残っている来館者と会わなかったのは退散を要求する手間が省けて私の心象的にも良かったが、未だ仕事に従事しているであろう館長含む他の学芸員たちとも出会わなかったことは少々不審に感じた。
しんと耳に痛いほどの静寂の中、コツコツと自身の足音だけが響く。
閉館時間直後はもっと慌ただしかったはずなのだが。私以外はもうすでに帰ったのかと思いはじめたあたりで、見回る最後の部屋へと辿り着いた。
その部屋には他の展示ホールとは違い扉が付いていた。ここの博物館の中でも一際希少なものが集められている、と言うのが扉で仕切られた理由ではあるが、来館者の動線を阻害しないよう通常は扉は開け放たれていた。
しかし今はぴたりと扉は閉められていて、開けなければ中の様子を確認することはできない。
ここまでの道中、普段なら慌ただしくしている他の職員は見当たらなかった。見かけなかった他の学芸員たちは、もしかしたらここに集まっているのかもしれない。
何気なくそう思ったが、それにしたって中から漂う静寂は平時のものと比べると違和感があった。
どこか不穏なものを感じながらも、さっさと済ませて家に帰りたい気持ちが勝ち、一度手をかけるのを躊躇った扉をゆっくりと開けていった。
♦︎
最初に知覚したのは匂いだった。鉄錆のような馴染みのない匂いが鼻をつく。匂いの正体がわからないまま扉を開き切ると、次に認識したのは赤だった。
展示物である絵画たちを容赦なく汚す真っ赤な飛沫。そして中央から広がり続ける血溜まり。匂いの原因は明らかだった。
想定外すぎる光景に呆気にとられる中、最後に感じたのは、血溜まりの中にいる存在から発せられた音だった。
ぴちゃり、ばきん、と何の音が最初はわからなかった。しかし鮮烈な赤に目が慣れた頃、知覚した全てを理解した。
中央で屈んでいる人物は人間を喰べていた。
博物館の薄暗い照明の中、人ならざる膂力で頭蓋を砕いて、首から引っこ抜いて、心臓のみを抉って。脇目も振らず人間の血肉に喰らいついていた。口や手につく血や肉片などお構いなしに噛み裂いて、呑み下していた。
そいつの周囲には無惨に食い散らかされ、辛うじて原型をとどめている死体が何体も転がされていた。死体はこの博物館で働いていた人間だろうことは火を見るより明らかだった。
そして現状の把握と同時に込み上げてきたのは、吐き気と生理的な嫌悪感、拒絶感。自分と同じ種である人間を食べている。この事実は同じ人間ならば、見る者を震え上がらせる凄惨な光景だった。
しかし同時に言い知れない高揚感と憧憬を感じた。相反する感情を内に留めながらも頭はひたすらに混乱していた。
こいつはなんだ。
男の姿をした何かだった。だが床に散るほど長く、翳った月の色をした金髪。同じ色をした鈍く輝く目。死人のような青白い肌。整いすぎていっそ恐ろしいほどの美貌を持ったそいつは突然の襲撃者にしては、あまりにも美しすぎた。明らかに人間ではない。
私に気づいているのかいないのか、そんなことはどうでもいいのか。眼前で冷たい麗人はそのまま食事を続けていた。
頭蓋を割り開き、骨を引っこ抜き、臓腑をまき散らす。そいつの食事風景は凄惨な有様でありながら、とても綺麗なものに見えた。
あんなに嫌悪していた男たちが意図も容易く無残な姿に変えられて、無駄に食い散らかされていく。
こんなに溜飲が下がるものもない。ざまあみろとまで思う。悍ましすぎて、清々しい。
だから、そんな見事なものを見せてくれた美しい化け物に、思わず声をかけてしまった。
「お前は綺麗ね」
ごくん、と肉の塊を呑み下す音の後で、目を丸くして明らかに驚いた顔でこちらを見ていたのをよく覚えてる。今までの人ならざる冷たさなど何処かに置いてきたような、幼い顔をしていた。
私も殺して喰うのだろうか、別にまあいいが、などとのんびり思ってその顔を眺めていた。しかし、あいつは口を拭いながらも、わかりやすく狼狽えていただけだった。
なぜあんなに動揺していたのか、それはわからなかったが自身に向けられた金の目が揺れる様はやはり綺麗だった。
結局、そいつは私を食べなかった。
私に手をかける素振りを一切見せず、どこからかこの惨状を聞きつけたのか到着した教会の騎士団と見える前にどこかへと消えてしまった。騎士団が来たということはあいつは怪異なのだろう。
この博物館唯一の生き残りとなってしまった私は、騎士団に保護されながらもあの美しい化け物のことが頭から離れなかった。
あの悍ましい食事の光景が何度も憧憬のように思い返された。
騎士団の中で聖騎士を呼ぼうという、話が持ち上がったあたりで私は騎士団の保護から抜け出すことにした。
私は何があっても、今代の聖騎士に会うわけにはいかなかった。
聖騎士は何者であっても討伐するほどの武力を持った者だ。流石にそんな奴が来てしまったら、先ほどの化け物も討伐されてしまうのだろうか。
あんな胸のすくものを見せてくれた奴が、聖騎士なんぞに殺されるのは少し気に入らなかった。
目を背けたくなるような事件の後でも事後処理が済んだのち、博物館は人員が補填されまた通常通りの業務に戻った。非日常は時間の経過とともに日常にすりつぶされていく。
流石に血を被った展示品はそのまま飾るわけにはいかないが、それでもあの部屋の血溜まりはもう何もなかったかのように綺麗に拭き清められていた。
♦︎
その日は雨が降っていた。博物館の閉館時間になり、大扉を閉めようと作業部屋からホールに出る。
もう来館者はいないようで、誰にも声をかける手間をとることなく大扉まで向かう。
戸締りを終えて振り返ると、一匹だけ来館者はまだ残っていた。
休憩スペースのソファに埋もれて、大きな黒猫が眠っていた。
雨から逃れてきたのかと思案しながら近づくと、白いレースのヴェールを被っていた。装飾をつけていたため野良猫ではなさそうだったが、もう館内には人はいなく、私がどうにかできるものでもない。
猫には恩があり、人間よりも私の中では優先度はずっと上だった。雨に晒すよりは、このまま明日晴れるまで寝かしておこうとその黒猫から離れようとすると、唐突に猫の目が開いた。
月のような金の瞳をしていた。
逃げてしまうかな、と思ったがそんなことはなく。黒猫はこちらを静かに観察しているようだった。でも、本当に、なんとなくだが、驚いているように見えた。
なぜ驚いているのかはわからなかったけど。そもそも私なんかが猫の気持ちを推し量れるはずもない。
「外は雨ですから、晴れるまでここにいても大丈夫ですよ」
艶やかな毛並みをとても撫でたい衝動に駆られたけど、それを我慢して黒猫をそのままに博物館を後にした。
やはり、なんだか先ほども黒猫がゆっくりと戸惑いがちに首を傾げたように見えた気がした。
♦︎
その夜から、見知らぬ黒猫は博物館にふらっと顔を出すようになった。
何を気に入ったかは知らない。夜、閉館間際になるとたまに現れては、毎回違うソファに埋まって眠っている。
そして黒猫を私が探し出すまでが毎回のこととなっていた。黒猫は見つかるとゆっくり顔を上げ、ただじっと目を細めてこちらを見るばかりで、鳴くことも逃げることもしなかった。だが少し話しかけて、ふと目を離すといつの間にかいなくなっていた。
猫らしくない猫だと思った。こちらを注意深く観察するような目といい、尻尾も耳も全く動かさず佇んでいる姿といい、猫というより猫の皮を被った何かだと思った。
夜にしか見かけないことも相まって、なにかの怪異ではないかと推測を立てる。今のところ何も害はないが、気になる事はいくつかあった。
一つは、私以外はその黒猫を見ていない事。職員、来館者含め本当に黒猫の存在は認知されていなかった。
そしてもう一つは、その黒猫を見るようになってから、この街で頻繁に惨たらしい死体が発見されるようになった事だ。
皆、心臓を抉り取られて絶命していたらしい。
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あの黒猫に初めて会った時から二月が過ぎた。たまに顔を出す黒猫を私が気にかける、というよりは黒猫に私が構ってもらってるようだった。
ある時撫でていいか聞くと、ダメとも良いとも反応が特に返ってこなかったので、とりあえず撫でてみた。
やはり、というか生き物でない証明というか、体温がなく冷たい体だった。
猫は目を細めてこちらを見るだけで、明らかに嫌そうな素振りはしてこなかった。なのでそのまま黒い毛並みを撫でていた。
その後もモフってみたり、尻尾や前脚を持って遊んだりしてみたけど静かに寛いでいるままで、黒猫からの反応は変わらずなかった。
ただ、抱っこできるかなと持ち上げようとした時、抵抗はしなかったが明らかにムッとした顔になって全身で嫌だと訴えていた。不機嫌そうな顔が可愛らしかったが、そもそも大きい猫を私が持ち上げられるはずもなかったので抱っこは諦めた。
自分でもかなり好き放題して遊んでもらっていた自覚がある。普通の猫ならある程度戯れたら、飽きてどこかに行ってしまうのが常だろう。もしくは嫌ならもっと素直に抵抗するだろう。
なのに、あの黒猫に関してはなんだかいろいろ許してもらった感がある。
やはり猫ではない何かなのだろう。
だとしたら、この博物館に来る意図がわからなかった。何をしたかったのだろう。
怪異なら気まぐれで立ち寄ったという理由だとしても、なんらおかしなことはないが。もし本当にそうなら、あの黒猫も気まぐれでいなくなってしまうのだろうなと、そう思っていた。
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後ろから自分以外の足音が聞こえる。
夜出歩くと、そう珍しくない頻度でこういう目に遭う。たいていはそこらへんの不審者、たちが悪いと博物館からついてきたやっぱり不審者。
婦女暴行なんて別に珍しくもない犯罪なのが余計に腹が立つ。人間よりも怪異に襲われる方がまだマシだ。とりあえず真っ直ぐそのまま家に帰らせて欲しい。
そんなことしたら家がばれるので、手間をとってまかないとならないが。
どうしようかなと最悪な気分のまま足を動かす。なんとなく周囲から他の音がして、まだ何人かいたりしてとか思ってしまう。
そこまでいったらもう人攫いじゃない。ここらでは聞かないから、ありえないと思うが。
だんだんと腹が立ってきた。最初から業腹ではあるが、もう嫌悪感が募り過ぎてどうにかなりそうだった。
とりあえず相手の面を見て、距離を取ってからなんらかの報復を考えようと振り向いた。
多分不審者相手にはあまりやってはいけない行動だと思う。
対人の警戒の仕方を教えてくれた幼馴染に怒られそうだった。
立ち止まって振り向いたは良いものの、やはり夜だからか、顔を視認できるまでにはならなかった。本当に腹が立つ。
ただ、思った以上にそいつは近くにいた。
さらに悪いことなのかもよくわからないが、さっきから隣の路地で何かの破壊音がする。
不審者だろう男は明らかに私を対象にして近づいてくることに、やはり嫌悪感しか湧かなかった。
とりあえず発砲してやろうかと思い、スカートの中で銃に触れ一歩引いた時。
ゴンッと鈍い音がして、いきなり人間がすっ飛んできた。比喩ではなく。
宙を飛んできたというより飛ばされてきた人間はそのまま目の前の男に当たって共々倒れ込んだ。
隣の路地からなのは明らかだったが、そんなことより飛ばされてきた人間にはすでに首がなかった。背骨ごと引っこ抜かれたのか知らないが、なんともありえないような折れ曲がり方をしていた。
意味がわからなかった。目の前で何が起きてることの何もかもが把握できなかった。固まって棒立ちになっていたと思う。
予想してない事が起こると思考が飛んで固まってしまうのは、本当に子供の時から変わらない。幼馴染に散々悪い癖と言われてきた。直せるものなら直したい。
私の戸惑いを他所にコツコツとヒールの音が聞こえた。
隣の路地からヒールの音を響かせて現れたのは、あの恐ろしげな美貌を湛えた化け物だった。
♦︎
怪異はそのまま倒れ込んでる男に手を伸ばすと、頭を掴んで持ち上げた。喚いて暴れてるのも意に返さず、唐突にずぐりと素手のまま男の心臓部に手を突っ込んで臓器を抉り出した。
酷い喘鳴のあと動かなくなった男をポイッと捨てて、血が滴る心臓を大きく開いた口に放り込んだ。
「……本当に綺麗に食べるのね」
食べっぷりが清々しくてそう声が溢れた。
こちらを視認した怪異は、他に人がいるとは思っていなかったようでやはり驚いた顔をしていた。
どうやらあいつの食事にこちらがたまたま乱入してしまったようだった。こいつに会うとびっくりした顔ばかり見るなと思っていると、何をどう思ったのが知らないが血塗れの怪異はそのまましばらく固まって何か思案しているようだった。
ガヤガヤと表通りから何人かの声が聞こえる。破壊音と悲鳴は隠してもいないため、よく聞こえていたろうし人が動くかとそちらを見ていた目をそいつに戻す。
するとそこには先ほどの青年の姿の吸血鬼ではなくて、博物館で眠っていたヴェールを被った大きな黒猫の姿があった。
死体の方を見ながら、なんだかすごく渋い顔でムッとしていた。
ここで明確に判明した。黒猫はあの怪異だった。
なんとなくそうなのではないかとは思っていたが。猫ではない怪異の猫。猫を見るようになってから現れた明らかに喰われたのであろう死体。撫でても体温のない体。そして何より、この黒猫の目は金色だった。
この国周辺の猫は気候の影響で目はほぼ青。それにこの国で金の瞳と言ったら吸血鬼だった。
「この街の人間もお前が食べたのね」
いまだムッとしてる黒猫もとい、吸血鬼に話しかける。中身はあの吸血鬼で猫ではないとわかっているが、撫でたい欲に負けて遠慮なく両手でモフモフする。
「お前が何食べようが別に良いのだけど。どうして今急に猫になったの」
よくわからないこいつの行動について問うと、キュッとさらに不機嫌な顔になった。そして不機嫌な顔のままモフられていた。
♦︎
この意味のわからないアイツの行動は前に本人に聞いてみた事があった。
本人曰く。めちゃくちゃ焦っていたらしい。食事を私に見られているとは思っておらず、普通は食人なんて見れば発狂ものだからとにかく怖がらせてはいけないと思ったらしい。
初対面で食事を褒められたのも、私が発狂してるからだと思っていたようで、一応その配慮をしようと思ったらしかった。だとしたらもう遅すぎるしなんとなく腹が立つ。
私が黒猫を構い倒していたため、とりあえず猫になれば怖くないかなと思ったとのこと。
あと、博物館に顔を出すうちに私が男性に並々ならない嫌悪感を持っていることには気づいていたため、自分の人型形態も良くないのではと思ったらしい。それは合ってる。
でも1番の理由は、人型形態だと話さなくてはならないからだそうで。話したいけど私とどう口聞いたら良いかわからなくなってしまったと。
その思考の迷走の挙げ句、とりあえず猫になってしまった、と言っていた。ほんのり照れながら。照れるな。そもそも私は発狂なんてしてない。そしてなんで怪異が人見知り拗らせてるんだ。そんなことあるのか。
吸血鬼だと恐れられていても、中身は精神面が恐ろしく脆弱な屑だからこんなものだろうか。幼児かと思う時もあるし。400歳は嘘だろうお前。
そもそもどうしてこの時点で私に好意的であったのかも、割と謎ではある。
こいつの性格を鑑みるに、知らない人間の話なんてそもそも聞いてないだろうし、顔を認知する前に殺していると思うのだけど。
ここは本人に聞いてもはぐらかされて教えてくれなかった。なぜ。
♦︎
また話が逸れた。
いつまでも死体のそばで猫を撫で回してるわけにもいかなかったので、一度博物館に戻った。が、ついてきていたくせにまた猫は気づいたらいなくなっていた。
それでも変わらず夜になるとふらりと博物館に現れて顔を見せにくるから、何か用があるのかと尋ねても、相変わらず渋い顔になるだけだった。
私は私で抱っこしようとしなければ嫌がられないのをいいことに、その体温のない猫によく構ってもらっていた。
多分私に用があるのだろう。
それはわかるが、何の用があって尋ねてきてるのか全くわからなかった。変な人間に声をかけられて物珍しくなったのかとも思って、本人というか本猫に尋ねたが、やはり反応から違うような感じがした。
そもそも猫だと意思疎通図れないのだから、人間形態があるならそっちで何か言ってほしかった。が、そうなったらそうなったで今度は私が距離をとりたくなる。急に男性の姿になられても困る。
中身が同じなのは知っているが、猫と男性ではそもそも抱いてるものが好感と嫌悪感であるため、相手があの美しいと思ってしまった鬼でも好んで近づかれたくはなかった。
結局、猫のまま唸ってるこいつとなんとか意思疎通を図ろうとするのが、現状1番平和的だった。
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