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彼は彼女が引越した訳を知っている
久しぶりに行った買い物の帰り道、雨が降ってきた。冷たい雨が、アスファルトの上に点々と黒い染みをつくる。
「やだ」
晴れると思って傘を持ってこなかったので、走った。新しく引っ越したマンションのロビーに入ると、暖かい空気に少しほっとする。
「大丈夫ですか」
はっ、と顔を上げるとコートを着た青年が立っていた。線が細い端正な顔立ちをした青年は、見知った顔で力が抜ける。
「レン君」
「やっぱりカスミさんだ。雨、すごかったですよね」
「そうだね」
春なのに大雨になって、これではかろうじて残っていた桜も散ってしまうだろう。
レンは同じマンションに住む大学生で、カスミが引っ越してきてから会うたびによく話すようになった。といっても、歳が離れているのでレンはよくしゃべるおばさん、くらいにしか思っていないのかもしれない。カスミはというと、レンのことを弟のように思っている。
「これ、どうぞ」
ハンカチを差し出されたカスミは断る。
「いいよ、汚れちゃうから」
「すみません。男のなんか、いりませんよね」
しゅん、と項垂れたレンはなんだかかわいそうでカスミはあわてて否定した。
「違うから!レン君の迷惑になるし、悪いなあって……」
「迷惑なんかじゃありませんよ。カスミさん、優しいですね」
レンは嬉しそうに笑顔になった。
若い子の情緒って分からない。カスミは内心首を傾げる。レンは今時珍しいほど几帳面だ。服装はばっちりしていて、ハンカチは必ず持ち歩いてい挨拶もする。だらしない服装で歩いているのを一度も見たことがない、優等生タイプで、それでいて人懐っこい友達が多そうな青年だ。
「優しいのはレン君じゃない?へっ、くしゅ!」
雨で濡れたのか、くしゃみをするカスミの肩にコートが掛けられた。
「カスミさん、カゼひいちゃいます。俺の上着で申し訳ないんですけど、これ着といて下さい、確か同じ階でしたよね」
「う、うん」
手際よくカードキーでエレベーターを呼ぶレンに、カスミは感心してしまった。モテるだろうなあ。掛けられたコートはフレグランスのいい匂いがする。夫とは大違いだ。
いや、元、と呼ぶべきか。カスミは離婚したのだ。元夫は浮気していた。カスミは夫の浮気を、家に届いた郵便で知ったのだ。見覚えない興信所の封筒の中には、夫の浮気写真や証拠がたくさんあった。
もしかしたら、嘘かもしれない、いたずらだといい。そう願いながら夫を問い詰めると、あっさり浮気を認めた。自分が悪かったから浮気されたのかもしれない。
引っ越して心機一転しようとしたカスミの心にはまだ後悔が居座っていて時々蘇ってくる。いつまでも落ちこんでいられないのに。
「……スミさん、カスミさん。つきましたよ」
「あっ、ありがとう、レン君」
「なにか悲しいことでもあったんですか」
顔に涙、ついてますよ。レンの骨張った指先に雫がついていてカスミはどきりとした。
「う、ううん、なんでもない。扉閉まっちゃうね、早く降りよう」
なんでもないふうを装って促す。
これ以上、レンといっしょにいれば、なにかがおかしくなる気がしていた。エレベーターを降りるとついてきたレンがカスミを呼び止める。
「カスミさん」
「なに?」
「つらい時は……相談にのります。だから一人で苦しまないで下さい」
まっすぐな瞳が、カスミを見ていた。早さを増した鼓動に、カスミは頷くしかできない。弟のようだと思っていたレンは、男性でしかなかった。好きになりかけているかもしれない。
「コート……いつ返せばいいかな」
「いつでもどうぞ」
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