彼は彼女が引越した訳を知っている

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 ドアを閉めたレンは笑いが止まらなかった。 「くっくっくっくっ……かわいいなあ、かわいい」 ひとめ惚れだったのだ。 大学に行く途中、通る道に面した家で、毎朝玄関掃除をしていたカスミ。あいさつをすればあいさつを返してくれた。 「おはよう」  淑やかな声であいさつされるだけで、一日どころか、いくらだって頑張れる。艶のある髪、汚したくなる白い肌、細い手足、なにもかもレンの好みで運命の出会いは本当なのだと、信じてもいない神に感謝した。愛してるカスミさん。 もちろん、カスミはレンのことなんて忘れているだろう。どうにかして彼女の記憶に残る存在でありたかった。その他大勢の通行人としてではなく、名前がある存在になる必要がある。  チャンスが訪れたのはカスミの夫を尾けていた時だ。優しくて純粋なカスミの夫になれたというだけでもレンにとっては許せないのに、あいつは他の女と浮気していた。カスミを裏切るなんて、愚かで馬鹿な男。怒りでレンは何度も夫が映る写真にカッターナイフを刺した。 「消えろ消えろ消えろ消えろ消えろっ!カスミさんを裏切るなんて」  許せない。二度とカスミに近づけないようにしてやりたい。そのためにはどうすればいいだろうか。 「そうだっ!、そうすれば」 手を汚さずあいつからカスミを遠ざけることができる。バイト代を使って、興信所に依頼して手に入れた浮気の証拠をカスミに送った。例え差出人不明の情報であったとしても、カスミは夫に確認せずにはいられないはずだ。  レンの予想通り、間もなくカスミと夫は離婚して、カスミはこの辺りで唯一カードキーを使うマンションに引っ越してきた。 「同じマンション、同じ階に住んでるなんて、なんて幸せなんだろう」  昂った体のまま、うっとりする。 さっきはエレベーターでカスミと二人きりになって、危うく襲ってしまいそうだった。  もっとも、レンがロビーにいたのはカスミの帰宅時間を見計らっただけなのだけども。離婚したのも、引っ越ししたのも、レンが誘導したのだ。  カスミがレンに堕ちてくるのは、そう遠くないだろう。ベッドの上で柔らかな体を暴く瞬間を思うたび、堪らない気持ちになる。 「好きだ……カスミ愛してる……」 劣情を含んだ吐息を吐いたレンは、耳に入れたイヤホンからするカスミの声に耳を傾けた。 願わくば、あなたが次に引っ越す場所は、俺の家でありますように。もう部屋の準備は、できている。
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