49話 退職届

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49話 退職届

 九月に入って、僕は急激な視力の低下に悩まされていた。  今日の昼間に病院に行ってきたけど、少し悪くなっているようだった。  そのことを、一緒に夕食の準備をしている彼に雑談として話していた。  僕自身は特に気にしていないけど、彼は心配してくれているようだった。 「目そんなに、悪いのか」 「そうなんだよね」  彼は徐にスマホで何かを、調べているようだった。なんとなく見てみると、目にいい食べ物を検索していた。  この人、マジでいい人すぎる……有能すぎる彼氏で、僕はとても嬉しすぎる。それと同時に、そこまでしてくれるのに何も返せない。  一目惚れって言っていたけど、彼のことだからそれだけじゃないと思う。多分……そう信じたいと思う自分がいる。 「さん! 律さん、危ない!」 「えっ? あっ、あつっ」 「ほら直ぐに、冷やして」  野菜炒めをしていて、考え事をしてぼうっとしていた。そのため、フライパンに手がつきそうになった。  間一髪のところで、彼が手を離してくれた。そのおかげで、湯気で少しヒリヒリするぐらいで済んだ。  直ぐに火を止めてくれたようだった。彼が必死な様子で、右手を冷水で冷やしてくれた。  その横顔を見て火傷の痛みなんて、感じなくてそれよりも体温でドキドキしてしまう。  支えてくれている腰からも、熱が伝わってくる。触られた箇所が熱くて、火照ってしまう。  段々と涼しくなってきたとはいえ、彼といるといつも熱くなってしまう。彼の優しさが心地よくて、素直には言えないけど甘えてしまう。  甘い香りが漂ってきて、体が熱くなってしまった。彼が何やら言っていたけど、それどころじゃなかった。 「痛むのか?」 「だい……じょうぶ」 「耳まで真っ赤。ここまで、火傷したわけじゃないよな」 「んっ……」  冷やしてくれている手とは反対の手で、僕の髪を触っていた。  くすぐったいけど、それ以上に耳からまた熱が広がっていくような感じがした。  水を止めて少し体が、離れてしまった。急激に体温が下がっていくような感じがして、少し寂しい気持ちになった。 「もうそろそろいいかな。薬を塗ろう」 「大丈夫だよ……もう痛くないし」 「ダメだよ。酷くなってからじゃ遅いよ」  救急箱を持ってきて、しゃがんで僕の手を取った。手に薬を塗ってくれて、その時の表情が綺麗だった。  僕の視線に気がついたのか、優しく微笑んでいた。ドキリとしていると、僕の右手の薬指にキスをしてきた。 「な、何を!」 「消毒。本当は左手がいいが、それは後に取っておく」  一瞬意味が分からなかったけど、直ぐに理解して体温が上昇していく。左手で自分の顔を隠していると、立ち上がった彼に優しく抱きしめられた。  僕が彼の顔を見上げると、より一層優しく見つめてくれていた。頬を触られて、端正な顔が近づいてくる。  静かに目を閉じて背伸びをすると、彼もしゃがんでくれて優しくキスをした。腰を支えてくれて、僕は彼の首に腕を回した。 「律さん、続きは後で」 「明日も仕事でしょ……程々に」 「はーい」  それから僕は休むように言われて、彼が料理している姿を見つめていた。  いつ見てもエプロン姿の彼は、凄く素敵で惚れ惚れしてしまう。  それからというもの、目にいい食材を使った料理を用意してくれた。嬉しいんだけど、毎回量が多くて食べきれない。  彼の真っ直ぐな優しさが、今はとっても心地よく感じてしまう。僕も何か出来ることを、探さないとね。  それから月日は流れ十月になった。後一週間で引越しとなって、僕は彼に手伝ってもらって片付けをしていた。 「律さん、この本類はダンボールでいい?」 「うん。少し入れて、その後にそこのタオル類を入れて」 「そうするのか?」 「そうすれば、ダンボールの底が抜けたりしないから」 「なるほど……」  僕が長年オタクしていて、考えた小技である。なんていうか……十八禁のものが、落ちたら業者さんも気まずいし……。  何より僕が恥ずかしすぎて、ヤバいことになりかねない。鼻歌混じりの彼が、急に黙ってしまった。  どうしたのかと見てみると、僕が書いた退職届を持っていた。あー、完全に忘れていた。 「あっ、それね。忘れ」 「なんで、そんな大事なこと相談してくれないんだ」 「……えっと、それは」 「やっぱ、俺じゃ頼りないのか」 「ちがっ……」  僕を見てきた瞳が、とても悲しそうで何も言えない。そんな顔して欲しくないのに……どうすればいいのかな。  そう思って俯いていると、彼は徐に立ち上がった。凄く傷ついた顔をして、何も言わずに帰ってしまった。  直ぐに我に返って追いかけたけど、姿が見えなかった。どうしよう……僕はそのまま、玄関先でへたり込んでしまった。 「はあ……いつもこうだ」  草津に行った時に、感じた違和感が今でも引きずっている。寝室に向かって行って、スマホを手に取った。  意を決して電話をするけど、コールはするけど出てくれない。仕事以外の時なら、いつもワンコールで出てくれるのに。  悲しくなってしまって、電話を止める。いつも僕は、どうすればいいのか分からずにいる。 「どうしたらいいんだろ」  退職届が目に止まって、手に取ると涙が溢れてしまう。僕の涙で少しずつ濡れてしまって、直ぐに文字が滲んでしまう。  必要のないものになったけど、勘違いしてしまうのは分からなくもない。彼と付き合って、幸せで完全に忘れていた。  でも彼からしてみれば、相談してほしいと思うのも分かる。僕的には、彼に物凄く甘えている。  頼っていて信頼している……でもそれは、彼には伝わってなかったのかな。口下手な自分が、本当に嫌になってしまう。 「もう、嫌だ……」  彼と付き合う前の僕なら、ここで諦めていたと思う。でも今は家族以外の、この世界で唯一無二の暖かさを知ってしまった。  今までもこれからも、彼以外からその暖かさを知りたくない。彼にも僕以外にその暖かさを、与えてほしくない。 「頑張ろう……」  僕は涙を拭いて、湊くんに助けてもらうことにした。散々迷惑かけて、酷いことも言ったけど頼ってもいいかな。
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