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30話 俺の前限定
早いもので八月になった。夏真っ盛りで、今年は例年よりも暑いらしい。でも僕には、そんなことどうでもいい。
家で夏の同人誌即売会に、出す同人誌を描いているからだ。仕事の時はwebだけど、同人誌はやっぱ紙で描きたい。
従来の紙には、紙の良さがあるからだ。エアコンのある部屋で、描いているから暑さなんてへっちゃらだ。
「ただ、リビングから出ると死ぬけど」
リビング以外の部屋や廊下が、サウナ状態になっている。そのため、トイレに行くのも一苦労である。
後もう少しで完成なんだけど、例年なら凛斗が手伝ってくれる。しかし今年は、販売だけを手伝ってくれるって話だ。
凛斗は最近、僕の家に来ることが激減した。その代わりと言っては、良くないけど……透真くんが頻繁に来てくれるようになった。
そこで電話が鳴り響いたから、見てみると彼からだった。はやる気持ちを抑えて、静かに電話に出る。
「もしもし、どうしたの?」
「今から行ってもいいですか? スイカ買ったので」
「スイカ! ……ゴホンッ、もちろんだよ」
「クスッ……後十分ぐらいで着くので」
電話口で笑っているのが、分かって少し恥ずかしくなった。スイカでここまで、テンション上がるとか恥ずかしい。
電話を切って、周りを見てみる。同人誌を書くための資料が散乱している。半裸の男性の写真や、その他諸々が……なんか、完全に誤解されそうなものが多い。
「少しは片付けよう」
まだゆとりはあるため、片付けを開始する。そうこうしているうちに、チャイムが鳴ったからオートロックを解除する。
玄関に向かうために、リビングから出るけど……あまりの熱風に、体が完全に悲鳴を上げた。
「律さーん、開けてください」
「ま、待って……今」
「おはよ……って、大丈夫ですか!」
鍵を開けたところで、力尽きてしまい彼に抱きしめられた。お姫様抱っこをされて、リビングのソファにゆっくりと寝かされた。
「お水どうぞ」
「うん、ありがと……」
上半身を起こされて、水を飲ませてもらった。冷たい水が体に染み渡ってきて、気持ち良くなってきた。
僕がまったりと水を飲んでいると、彼の目線がソファの前のテーブルの上をガン見していた。
待って……そこには、完全に十八禁の写真集があるんですが……しかも、ペラペラとめくって無言で見ている。
恥ずかしいから、それ以上見ないで……。逃げたくても、完全に肩を抱き寄せられているから出来ない。
「律さん、これ……」
「こ、これは……その」
「同人誌って、やつですよね。手伝いましょうか」
「いや、いいよ! 恥ずかしいから」
「そんなことないですよ。俺、絵とか描けないから尊敬します」
そんなキラキラな目で見ないでよ……自分が汚れていることを、再認識してしまうから。
でも尊敬するなんて、初めて言われたかも。今までこの趣味をオタクじゃない人に言うと、引かれるか軽蔑されるかだったから。
嬉しくなってしまって、思わず微笑んだ。すると彼の耳が真っ赤になっていて、外熱いもんねと思った。
「じゃあ、その簡単なやつ頼むよ」
「はい! お任せください! 先に、スイカ冷蔵庫で冷やしてきますね」
僕が頼むと、とびっきりの笑顔で喜んでいた。心無しか耳と尻尾が、見えるような気がする。
鼻歌を歌ってキッチンに向かって、準備している。その様子が可愛くて、俄然やる気が出てきた。
「律さん、俺は何をやればいいですか」
「じゃあ……ベタ塗りをお願い」
ベタ塗りとは、指定された箇所を黒く塗りつぶすことだ。意外と繊細さが求められるが、漫画はベタ塗りが基本である。
基本的なことを教えて、後は何か分からないことがあれば聞いてもらうスタンスにした。
「あの、律さん。この相手役の人、俺に似てません?」
「えっ……そ、そう?」
「因みに、主人公のこの青年は律さんそっくりです」
「あー、まあその……やっぱ、モデルは必要かな……なんて」
ベタ塗りを開始して直ぐに、そんな指摘をされた。適当に誤魔化そうとするけど、上手く出来ずにそのまま伝えてしまった。
少しの間。無言になってしまって、ヤバいと思ってしまった。やっぱ、無断で自分をモデルにされたら嫌だよね。
しかもゴリゴリの恋愛ものだし……流石に、十八禁のところは見せれないけど。気まずい思いをしていると、彼に優しく微笑まれた。
「律さんから見た俺は、輝いているんですね。嬉しい」
「……イケメンって、ズルい」
「何か言いました?」
「な、んでもない! ほら、そこ塗って」
「はーい」
この人はもう……なんでそこまで、身も心もイケメンなんだよ。これ以上ないぐらいに、胸が高鳴ってしまう。
しかも何が凄いって、ベタ塗り上手すぎない? 本当に初めてか、疑問に思うぐらいに上手いんですが。
手を動かしがながらも、僕は気になってしまって聞いてみることにした。
「透真くんは、漫画描いた経験あるの?」
「ないですよ。今日が初です」
「そ、そっか」
できる人と言うのは、なんでも器用にこなせるものなんだね。才能って言葉が、脳裏を過ぎってしまう。
上を見てもただ自分が、情けなくなってしまう。そんなことは、昔から何度も経験している。
別に今更この歳になって、気にすることでもないと思う。頭では分かっていても、どうしても心が納得してくれない。
そう思って俯いていると、僕の手の上に彼の手をそっと重ねられた。見てみると、優しく微笑んでくれていた。
「律さん、何か心配事があるなら言ってください」
「うん……何かあるって、ことでもないんだけど」
強いて言うなら、そこ知れぬ恐怖とでも言うのかな。何かっていう具体的なことはないんだけど、上手く言葉に言い表す事ができない。
自分自身でも、何が不安なのか分からない。説明しようにも、それが分からないから言う事ができない。
「律さん、何かあったら頼ってくださいね。俺は何があっても、律さんの味方なので」
「……本当に、ズルい」
「泣きたい時は、泣いていいですよ。但し、俺の前限定です」
「何それ……分かった」
僕は何か分からずに、泣いてしまった。すると優しく抱きしめてくれて、頭を撫でてくれた。
フワッと、香ってくる自然の甘い匂い。それだけで漠然とした不安や、恐怖が薄れていくような気がした。
しばらく抱き合って、ふと我に返った。こんなことしてる場合じゃない! 早く描かないと、最終確認すらできない。
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