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55話 素敵な彼氏
「海っていいな」
「来年は、来たいね。だけど、新刊で来れないんだろうな」
「桃色先生の方が、重要だね。温水プールとか……やっぱ止めよう」
彼が言いかけて止めてしまったから、不思議に思い顔を見てみる。口元を手で隠していて、表情は分からない。
ほのかに香ってくる甘い香りが、癒してくれている。運命の番とか関係なく、僕はこの匂いが好きだ。
だけど耳を真っ赤にしていて、こんなに寒いのに暑いのかと疑問に思った。寒いのならと思って、より一層身を寄せ合っていた。
「透真と宮澤……どうしてここに」
「……なんで」
後ろから声をかけられて、振り向いた。そこには黒いマスクを、顎まで下げて驚いている鹿野がいた。
レモンの香りが風に乗って流れてきて、急激に怖くなってしまった。目が合ってしまい、僕は直ぐに前を向いた。
彼の腕にしがみついて、自分でも分かるぐらいに震えてしまった。大丈夫だと思っていたのに、反射的に怖いと感じてしまった。
優しく頭を撫でてくれて、それだけで少し落ち着いた。彼が分かりやすいぐらいに、不機嫌になった。
彼と共に立ち上がると、腰を支えられた。そしたら後ろから、鹿野に声をかけられた。
「律さん、行こう」
「あっ、ちょっとだけ話を」
「言ったよな。もう二度と、俺たちの前に現れるなって」
反射的に彼の顔を見ると、見たこともないぐらいに冷たい目をしていた。彼からしたら、怒るのは当然のことだと思う。
でも二人は従兄弟だって言っていた。これから親戚付き合いで、何度も顔を合わせることになる。
その度に、こんな風になるのはよくない。僕のために争わないで! みたいなアニメのセリフを言うつもりはない。
だけど僕らにとって、今向き合わないといけない問題なんじゃないのかな。平然と歩き始める彼に、僕は話しかける。
「しっかりと、話したい」
「いいのか、辛い思いをするぞ」
彼が直ぐに歩みを止めてくれて、僕の顔を見て不安そうに見てきた。怖くないと言ったら、嘘になる。
だけど、彼がいてくれれば、大丈夫だと思えた。僕は彼の顔を見て、微笑みながら頷いた。直ぐに振り返って、鹿野に言っていた。
「俺もいることが、条件だ」
「……もちろんだ」
鹿野がオーナーをやっているカフェに、連れて行かれた。今日は午後かららしく、仕込みと新作のスイーツを作っていたらしい。
ケーキとコーヒーを出してくれて、向かい合って座っていた。隣にいる彼は、終始不機嫌で鹿野を睨んでいた。
「食べて……お代は要らないから」
「ふんっ……」
このままだと、時間だけが過ぎていくような気がした。後二時間ぐらいで、カフェが開店する。
他のスタッフさんや、お客さんに迷惑がかかってしまう。ここは僕から、言うべきだと思う。
だけど声を出そうとしても、どうしても出てくれない。彼が優しく微笑んで、僕の手を握ってくれた。
それだけで勇気が湧いてくるから、恋って凄いなと思った。僕は下を向いている鹿野に、意を決して話しかけることにした。
「それで、話って」
「透真に言われて、考えたんだ……ひとまず、ごめん。謝って、許されることじゃないのぐらい分かってる」
「だったら、謝罪なんて必要ない」
彼が鹿野を睨んで、そう言うものだから……僕は少し驚いてしまう。凛斗とは喧嘩してるけど、それ以上に憎しみが見えた。
本気で怒っているのが分かって、鹿野も泣きそうになっていた。それを見て、このままでは話し合いになりそうになかった。
今日で終わらないと、また会うことになってしまう。正直会いたくもないし、話したくもない。
「そんな頭ごなしに言わないでよ。僕のためだって、分かってるけど進まない」
「……律さんが、そう言うなら」
凄く不服そうだったが、彼はひとまず睨むのを止めた。鹿野の方を見ると、深く息を吸って話を始めた。
「高校の時、宮澤が浮気をしていたと聞いた」
「誰に聞いたの」
「藤島……」
凛斗が……それから何か言っていたけど、頭が真っ白になって何も入ってこない。意味が分からない。
仲良いって思っていたのに……僕のこと、嫌いだったのかな。すると彼が優しく抱きしめてくれていた。
只々何も言わなくて、抱きしめてくれていた。甘い香りが漂ってきて、少しずつ落ち着いてきた。
「なんで、凛斗は……」
「分からない……だけど、あいつはその話をする時……とても、楽しそうだった」
正直凛斗に関して、不信感しかなかった。言葉には出さなくても、彼も何か思っているように感じた。
「凛斗は、僕に鹿野が浮気したと言っていた」
「するわけがない……宮澤は俺にとって、初恋だったから」
「僕だって、直ぐに信用したわけじゃない」
僕にとって鹿野は、初恋かどうかは分からない。でも少なくとも、あの時は鹿野のことを信用してた。
好きだったし、一緒にいたかった。だけど、どうすればいいのか分からなかった。
「宮澤が休んでいる時に、言われたんだ。バレて逃げているって」
「ヒートじゃないけど、ヒートに似たような感じがして寝込んでしまった」
「本当は信じたかった……だけど、周りが宮澤のことを悪く言っていた。高校生の俺は宮澤よりも、周りを信じてしまった」
高校生っていうまだ未発達な時だから、仕方ないって今なら思える。でもそれは、透真くんっていう素敵な彼氏が側にいてくれるから。
彼の手を強く握ると、彼がこっちを見て微笑んでくれた。前よりも強くなれて、前に進めるようになった。
だけどきっと、鹿野は罪悪感があって前に進むことが出来ないんだ。こいつに同情はしないけど、それでも誰にとってもこの状態では良くない。
「もういいよ。僕はもう、凛斗に頼らなくても大丈夫になったから」
「律さん、いいのか……許して」
「何言ってんの? 許すわけないじゃん。一生、苦しめばいいよ。だけど、いつまでもそんな暗い顔されると、こっちが迷惑」
鹿野は僕の言葉を聞いて、少し嬉しそうにしていた。少し遠回しな表現してしまったけど、言いたいことは伝わったかな。
「ありがとう……信じれなくて、ごめんな」
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