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居候のお引っ越し
「はじめまして!」
目の前で斜め四十五度の綺麗なお辞儀をする男。俺はソイツを鳩が豆鉄砲くらったような顔でじっと見つめる。
俺の名前は岸本和也(きしもとかずや)。夢も希望も将来もない世の中を憂う厭世家だ。大学には途中まで通っていた。だが大学も社会の縮図と同じ、そこに何の価値も見いださなくなった俺は授業に出席することを辞めて久しい。今や俺の名前が大学の在籍簿に載っているかどうかすら分からない有様だ。俺をいわゆるエリートに育て上げ、ゆくゆくは寄生しようと企んでいた両親との連絡もとうに途絶えた。俺は今、空っぽの窮屈なワンルームという俺だけの世界に引きこもる日々を送っている。ここにいれば社会から干渉されることはない。ああ、何て素晴らしき小さな世界。ようやく得た理想の世界に浸っていた俺をある日襲ったのは、夏の日照りのように暑苦しい男……大人と呼ぶにはまだ幼い、青年の声だった。
急に入ってきて、お前誰だ。というか不法侵入だぞ、早く出て行け。
俺がそう言ったのもどこ吹く風。ソイツは関係ないと言うように自己紹介を続ける。
「オレの名前は相生大地(あいおいだいち)です! この春から縁野(ゆかりの)大学に進学します! 今日からよろしくお願いします!」
……今日からよろしくお願いします?
「さてと、じゃあ荷物を運び込むかな!」
待て待て待て。お前、俺の部屋に住み着く気か。認めない、認めないぞ絶対!
「これから忙しくなるけど、頑張るぞー!」
話を聞けー!
相生を部屋から追い出すために警察を呼ぶことも考えた。だが相生が部屋に居着く以上に、社会と関わるという厄介ごとの方がごめんだ。つまり、野郎同士の共同生活を許容するか、警察という社会の権力の権化と関わるか、天秤にかけたのだ。俺にとってどちらがマシで、どちらが嫌かなど決まり切っている。かくして俺と、前触れなく現れた青年、相生大地のルームシェアが始まったのだった。
とはいえ、俺も自分のユートピアを諦めたわけではない。要は、相生に俺の家から出て行きたいと思わせればいいのだ。コイツに恨みはない……と言えば嘘になるな。家に押しかけられた時点で恨みしかない。思い立ったが吉日。俺はすぐに行動を開始した。
まずは睡眠妨害から始めることにした。俺が他人にやられて一番嫌なことだ。かの孔子は自分がされて嫌なことは人にするな、という言葉を残したらしいが、この場合は逆だ。自分がされて嫌なことは積極的にやっていけ。そしていち早く俺との同居生活を諦めてもらえ。俺はお前を恨むが、お前は俺を恨むなよ、相生。
というわけで、俺の部屋に勝手に布団を持ち込み、暢気にいびきをかいている相生の耳にこう囁く。
でていけ。
決して丈夫ではないワンルーム。冷たい隙間風がひゅうっと入り込み、部屋の温度をがくっと下げた。
でていけ。
風が入り込んだせいだろうか、相生が持ち込んだ家具がガタガタと音を立て始める。
でていけ、でていけ、でていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけでていけ。
程なくして相生の顔が歪み始める。歯を食いしばり、「う……ぐ……」と呻き声を上げる。俺は呪詛を吐き続ける。でていけでていけ。
相生はしばらく呻いていたが、やがて薄目を開け、脂汗を滲ませながら言葉を絞り出す。
「すいません……お金がないんです……ここに、ここにいさせてください……」
だからといって人の家に勝手に転がり込んでいいわけないだろ。
俺は構わず恨み言を言い続けた。相生は胸をぎゅっと握りしめ、苦しみに耐えているようだ。すいません、すいません、と相生は謝り続ける。
「すいません、すいません、すいません……」
相生の閉じられた瞼から涙が流れ始める。息が上がり始める。顔色が首を絞められたように赤くなり、そう思ったら青くなる。俺の声だけが響いていた室内に、相生の嗚咽が混じり始めた。だが、相生は折れない。出て行くと言わない。
ああ、そうか。
俺はここでやっと気づいた。
コイツ、他に行く場所がないのか。
死にそうになりながら俺に抵抗する相生。それでもコイツは出て行くとは言わない。言えない。
コイツも案外、社会に馴染めなかったはみ出し者なのだろうか。
そう思うと、急に興が冷めてきた。いいだろう、俺もいい加減口が疲れてきたところだ。未だに呪いを吐き出していた口を閉じ、部屋の隅に移動する。
くれぐれも、俺に干渉するなよ。
俺が部屋の隅に座ったことで、風が入り込んでいた隙間が埋められたのだろう。冷えた風は止み、部屋がほんのりと温度を取り戻していく。相生はしばらく苦しそうにしていたが、程なくして穏やかな寝息が聞こえ始めた。
まったく、暢気な奴め。
俺は最後に悪態をつくと、ゆっくりと目を閉じた。
こうして本格的に始まった俺と相生の共同生活。かといって、特別何か変化があったわけではない。相生は朝早くに家を出て、夕方頃に帰宅し、夜遅くまで勉強机に向き合っている。俺に干渉するな、という忠告通りに、奴は俺に関わってこなかった。時々俺に答えを求めるかのように何か言っているが、俺がその言葉を無視するので実質独り言だ。それでもある種の独り言を止めないコイツにはほとほと呆れている。今だってそうだ。
「うーん、今回のレポート難しいな……」
相生は今、大学で出された課題に苦戦しているようだ。そんなもの、適当に済ませて最低限の単位だけ取れたら良いだろうに。しかし、俺は他にすることもないので相生がレポートに苦悩している様子をぼーっと部屋の隅から眺めていた。
相生が課題文を読んで「うーん?」と首をひねっている。一時間経過。
相生が参考文献を読んで「うぐぐ……」と唸っている。三時間経過。
相生がこのご時世珍しい分厚いノートパソコンに向かって「ぐぎぎ……」と歯を食いしばっている。五時間経過。
というか、こんなもの参考文献から都合のいい記述をささっと見つけてささっと書き終えれば良いだけだろう。馬鹿な上に要領も悪いのか、コイツ。
「あー分からん! けど頑張る! とりあえず今日はここまでだ! 絶対に今週中には済ませるぞ!」
相生はそう言うと、ささっと寝る支度を調えて薄っぺらい布団に入り、すぐにいびきをかき始めた。まさかコイツ、大学の課題なんてしょうもないものに数日かけるつもりか?正気の沙汰じゃない。人の家に勝手に上がり込んでくるような奴だ、ハナから理解できるとは考えていなかったが、ここまでとは。俺は相生の熱さというか、諦めの悪さにドン引きしながらゆっくりと目を閉じた。
そして次の日の夕方。相生はこれでもかと言うほどの大量の本を抱えて俺の部屋に戻ってきた。どん、と机の上に本を積み、漫画でしか見たことないようなハチマキを額に巻き、エナジードリンク傍らに作業を始める。
「よし! 今日も頑張るぞー!」
…………。
俺は軽い目眩を感じながらその光景を眺めた。何というか、見ているだけで胸焼けがしてくる。何でコイツはこんなにも何かに必死になるのか。俺には到底理解できん。そう言っている間にも相生は本にまみれていく。本が付箋まみれに、机の周りが紙まみれになっていく。荒らされていく部屋にいらつきながら、俺は相生の顔を睨んだ。そこでふと気づく。相生の真剣な顔つきに。どこまでも要領が悪く、愚かで、真っ直ぐで、光のともった視線と表情。俺にはできない表情だった。
ああ、そうか、コイツはこういう奴なんだな。
相生のことは理解できそうになかったが、相生がこういう人間なんだとは理解できた。理解できたからといって、何が変わるわけでもなかったが。だが、なんとなく……。なんとなく、何かが腑に落ちた。相生はまだレポートに苦戦している。その作業音を子守歌に、俺はゆっくりと目を閉じた。
そこから先の共同生活は、意外と上手くいった。相生が俺に干渉してこなかったのが一番の理由だ。ひたすらにマイペースな相生の生活を俺が観察し、時々コメントする。そのコメントに対しても相生はちゃんとスルーするので、俺は心置きなく言いたいことを言えるというわけだ。
「よし、料理ができたぞー!」
真っ黒焦げじゃないか、それを食うのかよお前。
「て、テストまずい……頑張らないと……」
あそこまでレポートにかじりつけるんだ、テスト勉強だってできるだろ。
「げほっ、げほっ! か、風邪ひいた……」
おいおい、しっかりしてくれよ。移されても困る、早く治せ。
「よっしゃー! 単位取れたー!」
お前頑張ってたもんな。まあ、良かったんじゃないの。
「……うん、今日の料理はいい感じだ!」
ずいぶん上手くなったもんだ。まあ、俺は食事が嫌いだから食べないけどな。
「……さみしい。家に帰りたい……」
……そんなこと言うなよ、ここだって家じゃないか。
春が終わって、夏が過ぎ、秋が去って、冬を越す。
こんな日々を何百日過ごしただろう。事件は唐突に起こった。
暑い夏の出来事だった。その日も相生は勉強机に向かって、課題に臨んでいた。俺はそれをいつものごとくぼーっと眺める。
相生は苦学生だった。常に節約を意識していた。真夏だというのに扇風機も冷房もつけず、窓を開けるのみで室内は灼熱だ。俺は平気だが、相生は全身汗だく。水道水で水分補給をし、濡らしたタオルで汗を拭いている。まあ、いつものことだ、今回も何てことないだろう。そう思っていた。
がたん
倒れた。相生が、倒れた。
……は?
俺は何が起きたのか理解できなかった。ただ、相生の体が、熱されたコンクリートの上に落ちていく水滴のように落下した、がたん、という音が耳に残った。
まだ意識はあるらしく、相生は外に助けを求めるかのように、手をドアに向かって伸ばす。だが、その手もほどなくして床にどさっと落ちた。そして動かなくなった。
……おい、悪い冗談が過ぎるだろう。早く起きろよ。
俺は声をかける。相生は答えない。
こんなときまでルールを守らなくたっていいだろう、なあ。
俺は苛立つ。相生は答えない。
なあ、本当にどうしちまったんだよ、相生。
俺はだんだん怖くなる。相生が答えない。
俺の脳はここにきてやっと回り始める。相生の頬は紅潮し、息も荒い。熱中症だ。熱中症になったときは……どうすればいいんだ。体を冷やして、水分を取らせて、それから……。いや、ここまで重症化しているんだ、俺の力じゃどうにもならないかもしれない。救急車を呼ぶか?だが、救急車を呼ぶということは電話をかけるということだ。そんな怖いこと、俺にできるはずがない。じゃあ、隣人に助けを呼ぶか?もっと無理だ。人は怖い。世の中がくだらないと思っていたのは、自分をごまかしていただけだった。本当はずっと怖かった。人が、集団が、社会が怖かった。ようやく恐れていた社会との繋がりが断てて、俺と相生の生活が始まって。こいつとなら上手くやっていけるかもなって思えた矢先の出来事だった。こんなことなら、外と繋がっていれば良かった。俺は玄関のドアを見る。外に行って、助けを求めなければ。分かっているのに、俺の体は言うことを聞かない。動かない。相生も動かない。
このままじゃ、本当に相生が死んじまう。
こんな状況になっても外に行けない自分に、俺は憤った。怒りと、相生を失うかもしれない恐怖と、焦りと、他にもいろんなものが汚い絵の具の色のようにごちゃ混ぜになっていく。色はどんどん増えていく。染みはどんどん広がっていく。俺は自分の体を抱える。どうしたんだろう、やけに寒い。腕に爪を立てる。どうしたんだろう、全く痛くない。息が上がっていく。すっかり物が増えた室内で、家具がガタガタと音を立て始める。
誰か、どうか誰か。
「助けてくれええええええ‼」
がしゃーん!
本棚が、机が、鏡が大きな音を立てて勢いよく倒れた。隣の壁から、がたがたっと驚いたような物音が聞こえる。すぐに、ピンポーンと部屋のチャイムが押された。
そこから先はあっという間だった。反応のない部屋の主を心配し、隣人が警察に通報したのだろう。部屋の惨状に驚きながらも、警察は相生を助けてくれた。俺は何もできなかった。言えなかった。ただ呆然とする俺を置き去りに、相生は外の世界へと連れて行かれた。
その日の夜、相生は帰ってこなかった。真夏なのに、部屋の中が異様に寒い。俺はすっかり定位置となった部屋の隅で膝を抱える。俺が冷房をつけろ、の一言でも言っていれば。俺がもっと早くに相生の異変に気づいていれば。俺が救急車を呼ぶことができれば。後悔が俺の中を満たしていく。
もし、このまま相生が帰ってこなかったら?
膝が震える。腕で無理矢理震えを押さえつける。あり得てしまうかもしれない未来におびえながら、俺はゆっくりと目を閉じた。
がちゃ
俺は玄関が開く音で目を覚ました。どうやら、昨夜はあのまま眠ってしまったらしい。はっと気づいて顔を上げる。そこには、どこか思い詰めたような、ぐっと口元を結ぶ相生の姿があった。
お前、ようやく帰ってきたのか。心配させやがって。
俺は立ち上がって相生に食ってかかる。一方の相生は、俺と目を合わせずに、視線を斜め上、天井に向けた。何か覚悟を決めているのか、すうっと息を吐き、出会った頃を思い出させる斜め四十五度のお辞儀をする。
「今回は助けてくれて、ありがとうございました!」
俺は面食らってしまう。というのも、相生がお辞儀をしているのは俺に向けてではない。誰もいない、玄関の方角なのだ。
お、おい。俺はそっちじゃないだろ、どこ向いてる。
俺は固まった。だが、相生はその程度では許してくれない。アイツは本当の意味で、俺を置き去りにする一言を放った。
「オレ、ここが自殺者の出た事故物件だって知ってます」
……何? 俺を担当した不動産屋は、そんなこと一言も言ってなかったぞ。
相生は続ける。
「でもお金ないから内見もせずにここに住むことにして……。最初の夜、『でていけ』ってオレに金縛りをかけましたよね。でも、オレがすいませんって謝ってたら、やめてくれた。そのとき、この部屋にはオレ以外にもう一人いるって確信したんです」
真剣な表情、俺にはできない表情で語る相生に俺は気づかされる。
ああ、そうか。
居候は、俺の方だった。
いつからか、暑さも寒さも、空腹も痛みも感じなくなった自分の体に目を向ける。自分が死んでいることに気づいたせいか、体が徐々に透け始めた。残された時間が少ないことを悟る。
俺、相生となら上手くやっていけるかもって、思ったんだけどなあ。
そんなこと実はまやかしで、お互いの世界は最初から何一つ噛み合っていなかったことが馬鹿らしい。本当に、何とも馬鹿らしい。……馬鹿らしい。
相生と一緒なら、きっと大学の授業も楽しい。
相生と一緒なら、きっといろんな人と出会える。
相生となら……きっと友達になれる。
そんな叶うはずのないたらればが、真夏に降る細雪のように消えていく。溶けた願いが、目元を伝って、未だ荒れ果てている床へと落ちていく。
何で俺、相生ともっと早くに出会えなかったのかなあ。
悔しい。ただただ悔しくて、悔しくてたまらない。
俺はその場に座り込む。消えゆくからだをこの部屋にとどめるように、座り込む。相生はまだこっちを向かない。悔しい。
俺が運命に抗おうとしていると、相生が言葉の続きを丁寧に紡ぎ始めた。
「幽霊さんがいるって分かって、全く怖くないわけじゃなかったけど……くじけそうになったときとか、しんどかったとき、一緒に住むことを許してくれる人がいてくれるって思うと、心強かった。今回も、幽霊さんがえっと……ポルターガイスト?現象起こしてくれなかったら、死んでたかもしれない」
そうして、相生はもう一度、誰もいない空間に向かってお辞儀をした。
。
「だから……本当にありがとうございました! これからもよろしくお願いします!」
日だまりのように暖かく、ひまわりのように元気な笑顔。俺にはできない笑顔。その笑顔は、俺を納得させるには十分だった。
そっか。これで良かったんだ。
俺は涙でぐしゃぐしゃの顔を乱暴に拭く。そして、立ち上がる。玄関へと向かう。
のぞき穴から、一筋の光が廊下を照らしている。俺はその光の道を歩き出した。
なあ、相生。せっかく料理が上手くなったんだ、友達にでも振る舞ってやれよ。
お前は要領が悪いから、課題やテストは早めに取り組めよ。
あと、真夏は必ず冷房をつけろ。俺はもう助けてやれんからな。
ドアノブを握り、後ろを振り返る。相生がこっちを見送っている。そのとき、確かに俺と相生の目が合った。思えば、目が合うのはこれが初めてだ。相生は俺を、太陽のように真っ直ぐな瞳で見つめている。俺は相生を真似た、ぐちゃぐちゃで引きつった笑顔で応えた。もう、俺にはできないだなんて言わない。別れの挨拶を交わし、俺は外に出るための一歩を踏み出す。
アパートの廊下に出る。階段を降りる。道に出る。深呼吸をする。気持ちの良い新鮮な空気が、空っぽの肺を満たす。
あれほど重かった体が、足取りが、心が、今は嘘のように軽い。体はどんどん薄くなっていく。
さあ、これからどこに行くかな。
目的地がどこかは分からなかったが、この歩みが自然と進む方向に行けば大丈夫。そういう確信があった。俺は最後に、相生と過ごしたアパートを振り返る。ここには長らく世話になった。相生と過ごした日々を思い出しながら、終の棲家だった場所をしばし見つめる。
ここは相生の家だ、居候は出て行ってやらないとな。
少しの間を置いて気持ちを切り替えると、俺は歩き出した。心の赴く方向へ。
蝉が愛を囁いている。必死に生きている。人々の息づかいが聞こえる。みんな、必死に生きている。今までは怖くて仕方なかった人の営みも、今はどこか愛おしい。自分らしくない感情に、俺はおかしくなって吹き出した。
晴れやかな気持ちで空を見上げると、真夏の雲一つない晴天が俺を迎え入れていた。
居候のお引っ越し 完
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