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全てを捨てて旅に出た。
捨てた、なんてのは所詮結果論で、失ったと言えないのは俺自身が矜持を保つための自衛である。
だが今となっては、そんなことどうでもいい。
心に形があるのなら、俺の心は子どもの頃に観ていたアニメの中にあったチーズのように、夥しい数の穴が空いているだろう。
いつ崩れてもおかしくない、そんな形だった。
一つずつその穴を埋めるように、俺は世界中を巡ったのである。
しかしどの国も俺の心の穴を埋めてはくれなかった。
「旅を終わらせよう」
無意識のうちに俺は、そんな言葉を呟いていた。
それは体を溶かすような暑さと、溶けた体が空中に霧散しているような湿度が同時に存在する国。
自分にとって最後の希望だった旅で、何も得られなかった俺は人生そのものを終わらせようと決めたのだ。
「なんだ、簡単だったな」
いつだって意識的に避けていた選択。
思いつきのように決断すると、一気に心が軽くなった。
自分の首に巻きついていた大蛇が、その行動自体に飽きたかのように呼吸が楽になる。
もしくは、肺に溜まっていた鬱々とした水が、胸に空いた穴から流れ出したのかもしれない。
「ははっ、気持ちは楽なのに手が震える」
気持ちと体が反発しあって起こる小さな痙攣。それがどうにも可笑しくて、思わず笑った。
偶然にも終わりを決めてしまったこの国には申し訳ないが、ここで眠らせてもらおう。
俺は死を得るための道具を探して、露店街に立ち寄った。
縄でも、薬でも、ナイフでも、なんでもいい。
こんなことを言うと笑われるかもしれないが、死を覚悟してから何故か生きているという実感が強い。
早く終わらせたいと願う。それはつまり今は終わっていない。俺は生きている。生きているから苦しいんだ。
ああ、生きている。
自然と歩幅も大きくなった。
他人の目も、法も、誰かの攻撃でさえ怖くない。
俺を止めるものなど何もない。
そう思っていた。
「お兄さん、日本人だね」
突然日本語で話しかけられた俺は、思わず足を止める。
慌てて声の方向に視線を向けると、廃材と汚れ切って元々何色だったのかさえわからない布で出来た屋台の中から、煙草を咥えた老爺がこちらを見ていた。
前歯が何本か欠けており、そんな老爺が薄ら笑いを浮かべている。胡散臭い以外の感情が湧き出てこない。
それでも日本から遠く離れた異国の地で、日本語を聞けた安心感に胸がざわつく。
「そうですけど、なんですか?」
俺が答えると、老爺は煙を吐き出した。
「へっへっへ、なんでもねぇさ。ただ、珍しい目をしているのが気になって声をかけただけだ」
「珍しい目?」
「この国に来る日本人は、大抵が観光客かビジネスマンだ。観光向きとは言えないこの国に来て、自分は特別だと悦に浸るか、この国で一山当ててやろうってやつばかり。どいつもこいつも瞳の奥に欲を宿してるもんだ。けど、お兄さんの目には何もない。歩く死体みてぇだったからよ」
生きている実感を得たばかりなのに、歩く死体なんて言われるとは思わなかった。
俺がわかりやすいのか、老爺の目が特別なのか。
「俺がどんな目をしてようが関係ないでしょ」
「へっへっへ、そりゃそうさ。俺には関係ない。何も関係はないさ。ただ、生きててもいいことがねぇって顔が気に食わねぇ」
「知りませんよ。何様なんですか。別に気に入られようとしてませんよ」
俺が吐き捨てると、老爺はスカスカの前歯で笑う。
「へっへっへ、まぁ、そうだ。誰にも好かれなくていい。生きてればそれぞれいくらでも辛いことはあろう。だが、日本は」
「日本は、世界から見れば恵まれてる。そんな話を聞かせるために呼び止めたんですか?」
老爺の言葉を遮り、俺は睨みつけるように言い捨てた。
すると老爺は折れそうなほど細い首を横に振る。
「日本人はせっかちでいけねぇな。生きてれば誰だって辛いことはある。そう言っただろ? 恵まれていようと、恵まれてなかろうと関係ない。俺が言いたいのは別の話だ」
「別の話?」
「生きて生きて、辛いことが溜まりに溜まって、ここに辿り着いたんだろう? 日本は、この石の価値が高い。売れば邪魔にもならないだろ。これを持っていきな」
老爺はそう言いながら、手のひらの上にある赤い石を見せた。
不思議な輝きを持つ、見慣れない石だった。
「何ですかこれ。宝石? ルビー?」
「何言ってんだ。日本のビジネスマンはこれを求めに来るくらいだぞ。聞いたことねぇか、ガーネットって」
「聞いたことは……ありますね。でも、どうしてこれを俺に?」
「一々意味を求めなきゃならねぇのか? まぁ、だが、この国を愛する者として、この国で絶望して死ぬなんてのは見過ごせないってだけだ」
「死ぬなんて言ってないじゃないですか」
「でも、死ぬだろう?」
老爺の問いかけに何も返すことができなかった。
穴の空いた心を覗き込むような目が、何故かガーネットと被る。不思議な輝きだ。
「生きる意味、目的、過去。そんなものばかり求めるから、絶望してしまうのさ。大切なのは今を生きてるってことだろ? 俺にとって煙草を吸ってる今が生きていることそのものだ。煙で肺がずんと重くなる瞬間が、それを感じさせる。お兄さんにとって、その瞬間がまだ見つかっていないのなら、その石に委ねてみな? 少なくとも俺は、そうしてここに座ってる」
「どういうことですか?」
「野暮なことを聞くお兄さんだ。何年か前の俺に似ている、それだけだ」
老爺はこれまでの軽薄な笑みを捨て、俺にガーネットを手渡した。
どうしてだか、拒絶することができず俺はそのまま受け取る。
「こんなものもらっても」
重荷でしかない。もうすぐ全てを終えると決めているのに、そんな大切なものを受け取ってどうしようというのだろう。
「あれ?」
意味がわからなかった。
手の震えが止まっている。
心の重さもない。息苦しささえも、何もなくなっていた。
ただガーネットを持ったまま死ぬわけにはいかないと思っただけなのに。
一つだけ、自分のものができただけなのに。
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