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跪いた男
イタリア各地を巡りながら、新しい連載小説の舞台を作り上げていく徒然と編集者の後ろをついて歩きながら、美咲は自分の心の中に生まれた小さな疑問を持て余していた。
あの海岸で見かけた親子に見覚えがあるような気がして、つい走り出してしまった。
すぐに追いついてきた徒然が、不自然なほど海の方へ顔を向けさせたのはなぜだろうか。
砂浜に誰かいた?
知り合い?
私が忘れてしまった誰かだとしても、隠そうとしたのはなぜ?
そこまで考えると、頭の中に霞がかかる。
考える必要はないということだろうか。
それとも考えてはいけない?
海……海の近くの町……行ったことがある?
「美咲、来てごらん。これが『命の木』だ」
ローマから3日かけてフィレンツェへ移動する途中で立ち寄ったルチニャーノという街で、どうしても美術館に立ち寄りたいと徒然が言った。
美咲にとっては初めての海外旅行だ。
記憶を失くす前は留学したいと言っていたらしいので、イタリアに行きたがっていたのかもしれない。
「まあ、これは金? 随分大きいのね」
一緒に来ている編集者と現地コーディネイターがそっと離れていく。
楕円形のガラスケースに入っているそれは、3メートル近くの大きさで頂点には光り輝く十字架が掲げられていた。
「きれいね……素晴らしいわ」
「美咲」
徒然の声に振り向くと、多くの人たちが囲むように二人を見詰めていた。
「え? 徒然さん?」
いきなり片膝をつき、1本の真っ赤なバラが差し出された。
「この木の前でプロポーズをすると幸せな夫婦になれると言い伝えられているんだ……安倍美咲さん、どうか私と結婚してください」
大きく目を見開いて固まる美咲に、立ち上がった徒然が近づいた。
「返事は?」
「もちろんYESよ。私を徒然さんの奥さんにして下さい」
バラを受け取った美咲を徒然が抱きしめた。
見守っていた人達が一斉に拍手する。
「みんなが祝福してくれているね」
「うん、うれしいわ」
美咲の中の小さな疑惑の目が吹き飛ぶように消え去っていく。
徒然は見たこともないほどの笑みを浮かべ、美咲を片手で抱いたまま手を振って声援に応えていた。
「いやぁ、無理やり『恋人を連れて行く』なんて、本田先生らしからぬ事を仰るからお驚いていたのですが、これを狙っておられたのですね? やられました」
編集者がニヤニヤしながら揶揄ってくる。
「迷惑をかけた自覚はあるよ。今回の連載は今まで以上に頑張るから勘弁してくれ」
「もちろんですよ。しまったなぁ……動画をとっておけばよかった」
イタリア人コーディネイターが徒然にサムズアップして見せてから、美咲の手を取って唇を寄せる真似をした。
それからの美咲は、何を気にしていたのかさえ忘れたようにイタリア旅行を楽しんだ。
早く帰ってお母さんに報告したい。
美咲の心は幸せで満たされていた。
本来の徒然はこんなことをするようなタイプではない。
そんな徒然がここまでした理由は、父親である松延が残した手記だ。
『記憶を手繰り寄せようとした場合、大きなインパクトを与えることで防ぐことができる』
大きなインパクトとは、本人の想像を遥かに凌ぐ衝撃ということだ。
そして手記には続きがあった。
『空洞にした記憶の収納場所に衝撃を与えても、無重力空間で放つのと同じだ。まずは空洞を満たす必要がある。空洞を満たす方法とは?』
これに関する記述はそれ以上無かった。
そして、父の後を継いだ徒然が編み出した解決方法が『空洞を架空の記憶で埋める』というものだ。
今の美咲に空洞は無い。
だとすると与えた衝撃は、そのままの大きさで美咲に響くはずだ。
そしてそれは成功したと言える。
あれ以降の美咲の顔は、何も知らない編集者やコーディネイターでさえ分かるほど明るくなったのだから。
一行は予定より1日遅れでフィレンツェに到着した。
ここで数日取材をした後、今度はピサを経由して海沿いルートでローマに戻る予定だ。
フィレンツェはレオナルド・ダ・ヴィンチのパトロンとしても有名な、メディチ家を取材するのが目的だが、イタリア有数の名勝地としても名高く、観光にも事欠くことが無いため美咲も大いに楽しんでいる。
当初計画していた取材も順調に終わり、ローマで2日の休暇を確保した徒然は、美咲を連れてカソリックの大聖堂を訪れた。
聖堂内をゆっくりと見て回った後、階段を登り展望台へと登る。
「凄いわ……圧巻ね」
素直に驚く美咲の横顔を見ながら、徒然は連れてきてよかったと心から思った。
「ここには来たいと思っていたんだ。どうやら私は神の機嫌を損ねているようでね」
「徒然さんが? ふふふ……おかしなことを言うのね」
「でもそれも今日で終わるはずさ。心からの祈りを捧げたからね」
美咲の屈託のない笑顔に、癒されている自分に気付く。
助けているつもりが、いつの間にか助けられていたのかもしれない。
「美咲の笑顔はいつも私を救ってくれる。愛してるよ、美咲」
「私もよ。私も徒然さんを愛してるわ」
ローマの街並みに夜の帳が下りようとしていた。
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