去る女

1/1
前へ
/58ページ
次へ

去る女

 その日は特売のカップ麺で夕食を済ませ、孝志が帰ってくるまでひたすら掃除をした。  髪の毛一筋たりとも残したくないとばかりに、念入りに床も拭き上げる。  鍵が開く音がして、孝志がリビングに入ってきた。 「あれ? まだ起きてたの?」 「うん、ちょっと掃除してたら止まらなくなっちゃって」 「ははは、裕子らしいね。風呂は?」 「沸いてるよ。ねえ……孝志って来週実家に帰るの?」  孝志が驚いた顔で振り返った。 「どうして? 母さんから電話でもあった?」 「まあそんなところ。で、どうなの?」 「まだ決めたわけじゃないけど、顔を見せろって煩くてさ。子供のことでまた嫌味でも言いそうだし、裕子には黙ってようと思ったんだ。ごめんね、かえって気を遣わせちゃったね。行くにしても日帰りにしようと思ってる」 「そう、じゃあ私は行かない方が良いね」 「いや、裕子さえ良いなら一緒に行こうよ」 「行っても良いの? あなた、困らない? ははは! 困るでしょう? 行かないわよ」 「裕子?」  怪訝な顔をした孝志だったが、何も言わずに風呂場に向かった。  閉まったドアに向かって小さく悪態をつく。 「バカじゃないの? 四者面談でもするつもり?」  裕子は自分の食器をゴミ袋に投げ込んだ。  パリンと乾いた音がする。  茶碗もモーニングプレートも、箸もペアマグも全て自分の分だけを選んで捨てた。  風呂場のドアが開き、パジャマに着替えた孝志が顔を出す。 「まだ寝ないの?」 「ねえ……あなた玲子さんと会ってる?」 「え? 玲子? まあ、たまに? ほら、昔の仲間で飲むこともあるし。どうしたの?」 「どうしたもこうしたも無いわよ。ただ聞いただけ。おやすみなさい」  何か言いかけた孝志を無視して、裕子はゴミ袋の口をきつく縛った。   「あ……ああ……おやすみ。裕子も早く寝た方がいいよ」  寝室のドアが閉まったことを確認し、引き出しから茶封筒の束を取り出す。  昼間に買って来たB5版のアルバムに、写真とメモを丁寧に貼り付けていく。  そのアルバムはピンクの花柄で、ところどころにプリントされたハートマークが、キラキラと光る安っぽいデザインだ。  このデザインを見つけた時、裕子は何かが吹っ切れたような気がした。 「あんた達にお似合いだわ」  迷った末に一枚だけ手元に残し、出来上がったアルバムを引き出しに入れる。  残したのは、一番最初に送られてきた集合写真だ。  この日から二人は関係を持っているのだろうことは、想像に難くない。  裕子はその写真をハンドバックに入れた。  何事も無かったように朝がきて、何事も無かったように朝食の準備をする。 「裕子は食べないの?」 「うん、欲しくない」 「そう? ねえ、裕子。昨日からおかしいよ? 黙って実家に帰るのが気に入らなかった? 君を傷つけたくないって思っただけなんだ。機嫌直してくれよ」 「……」 「ああ、そうだ。土曜の始発で行って、夕方にはもどるからさ。どこかで待ち合わせして美味いもんでも食べないか?」 「三人で?」 「え?」 「なんでもないわ。考えてみる」 「あ……ああ、じゃあ行ってくるね。今日は早く帰れると思うから」 「行ってらっしゃい」  閉まったドアに向かって、裕子がそっと呟いた。 「さようなら、孝志。永遠にさようなら」    食器を片づけ、流しには水滴一つ残らないように拭いた。  忘れ物が無いかを確認し、ハンドバックとボストンバッグを手に玄関に向かう。  下駄箱から一足だけ残しておいた靴に足を入れ振り返る。  暫しそのまま部屋を眺めた裕子は、誰にともなくペコっと頭を下げて部屋を出た。  集合ポストに鍵を入れ、歩道からマンションを見上げた裕子。   「皆さん、さようなら」  タクシーに乗り込み、行先を告げてシートに体を委ねる。  流れていく景色を眺めながら、裕子はぼんやりと考えた。  帰ってきたら、テーブルの上に置いたあのアルバムに気付くはずだ。  そしてその横にある結婚指輪を手に取るだろう。  その下には記入済み離婚届も置いてある。    結婚式や新婚旅行の写真も、保管してあった年賀状や手紙類も全て澄子宛に送った。  このマンションのゴミ収集所では、万が一でも孝志に回収される恐れがあるからだ。  彼女には荷物が届くことを電話で伝え、受け取りの了承も得ている。  裕子は敢えて手紙を残さなかった。
/58ページ

最初のコメントを投稿しよう!

402人が本棚に入れています
本棚に追加