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眺める男
美咲と一緒に見た水平線を、今はひとりで眺めながら、徒然は遠い昔に父と交わした会話に思いを馳せた。
まだ学校に上がったばかりの徒然を書斎に呼び、神妙な顔で父が言ったあの日。
「お前はどこまで知っている? 母さんのことだ」
「母さんは僕を産んだ人ではない事は知っています。お母様本人から聞きました」
「そうか。それではお前を産んでくれたのは誰か知っているかい?」
「志乃さんでしょ? これもお母様が教えてくれましたよ」
「うん、ではなぜ産んでくれた人を使用人として名前を呼び、そうでない人を母と呼ぶのかはなんと言っていた?」
「体が弱くて跡継ぎが産めないから、健康な志乃さんに頼んだのだと聞きました」
「まあ大筋では間違っていないが、大事なことが抜けている」
そして父は年端も行かない子供の徒然に、母と呼んでいる女性との関係や、彼女が抱えている病について話した。
「お母様は精神を病んでいるの?」
「そうだ。幼いころからずっと病弱だった上に、両親を一度に亡くしてね。心が弱り切っていたところに、相続問題も重なって、とても辛い思いをしていたんだ。私と小夜子は親が決めた許嫁だったから、助けてやれるのは私しかいなかった」
「それでお母様と結婚を?」
「ああ。でも小夜子はそれを気に病んでね。どんどん現実から逃れていったんだよ。目を離すと死のうとする。だから私は小夜子に催眠術をかけた」
「催眠術ですか?」
「そうだ。ここにいて当然の人間なのだと思い込ませたんだ。でも催眠術というのはほんの数日しか効果は続かない。いや、続けるようにもできるけれど、本人への負担が大き過ぎる。だから断続的にかけ続けるしかないんだ」
「お母様が時々ひどく泣いておられるのは、術が解けている時ということですか?」
「そうだ。術の効果が切れたら発作のようなものが起きる。このところどんどん頻繫になっているだろう?」
「……」
「もう効かなくなっているのだと思う。そして体の方もどんどん悪くなっている」
「それは……」
「覚悟した方がいい。もってあとひと月だと医者も言っていた」
「……わかりました」
「それともうひとつ。私が愛した女はお前を産んだ志乃だけだ。そして志乃は私の研究の集大成でもある」
ずっと研究してきた記憶領域への介入や、その術を志乃に施すことになった経緯など、およそ子供に聞かせるような話ではない内容だった。
その長い話の中で、父は何度も『志乃だけを愛している』という言葉を口にする。
愛した女を妻にできないという後悔を、子供心にもヒシヒシと感じ、これほど辛いなら自分は生涯妻帯はしないでおこうと漠然と思ったものだ。
「それがどうだ? 同じ女に二度も求婚し、彼女を救うためにここまで奔走しているとは」
自分の変わりように驚くというより呆れてしまう。
それと同時に『愛』というものに限りない興味を覚えるのだった。
「困ったな、もう美咲に会いたい」
最早それは衝動とも言うべき渇望だろう。
それにしても明日だ。
もし山﨑孝志が『裕子』に会わせろと言ったら?
「答えはNOだ」
しかし『NO』と返答することは、美咲を裕子だと認めることになってしまう。
「他人の空似で押し通すか?」
編集長という男はどこまで事情を知っているのだろうか。
「もしもの時は、どんな手を使ってでも叩き潰すしかないな」
ふと徒然の頭に不穏な単語が浮かんだ。
「窮鼠猫を嚙むか……さてさて、どちらがネズミでどちらが猫やら」
もう真っ暗になった海に、光の粒が浮かんでいる。
「こんなに荒れていても出るんだな」
船籍も何も分からないその船に、航海の無事を祈らずにはいられない徒然だった。
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