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誘われた男
「いやぁ、こんな飲み方は久しぶりです。家では絶対に許してもらえないですからね。まるで学生時代に戻ったような気分だ」
「先生はどちらのご出身ですか?」
「先生はやめてください。私はT大です。編集長は?」
「ははは! 編集長って。お互いに名前で呼びましょうか、本田さん。私もT大ですよ。文学部の1999年卒です」
「では山中さんと呼びましょう。1999年なら先輩ですね、私は2004年卒です。その年の文学部卒なら、推理小説の山田先生と同期ですね?」
「山田明人は友人です。いや、もうあちらは雲上人だから過去形かな。卒業してから何度か会いましたが、最近は疎遠ですよ。本田さんも文学部?」
自分の方が年上だとは思っていたが、同じ大学の後輩だとわかり、少しだけ気が楽になった山中の口調が崩れた。
「私は医学部です。父のあとを継ぐ予定だったので。うちは代々医者の家系なのですよ。でも父は開業せず大学に残って研究者になりましたし、一人息子である私はこういう仕事を選びました。ご先祖様に言わせたら、きっと出来損ない親子でしょうね」
「出来損ないのレベルが高すぎますね。私は小説家になりたかったのですよ。でもなかなか食えないでしょ? うちは母子家庭だったし、当時付き合っていた女に子供が出来ちゃったのでさっさと諦めて出版会社に就職しました。書く側から売る側に回ったってことです」
「そして今はタウン誌の編集長ですか」
「いろいろありましてね。実家に戻るしか無かったのです。離婚して子供を引き取ったまでは良かったのですが、父子家庭はなかなか……」
「そうですか。そういえば山﨑さんもひとり親だと仰ってましたね」
「ええ、あいつも同じような感じで実家に戻ったのですが、子育てを優先できる仕事ってなかなかありません。これは男親も女親も同じです。まあ、現実的には女性のひとり親家庭の方が制度は充実してますが、如何せん給与が安い仕事になっちゃうでしょ? 男の場合は逆です。あいつは上場企業にいたのですよ。恐らく今の給与の倍は貰ってたんじゃないかな」
「でもそれを辞めた?」
「そうです。第一線で働きながら一人で子供を育てるのは不可能です。今の日本ではね」
「そういうものですか……まあいろいろな話は聞きますが、実際にそういう立場にならないと現実味がないですからね」
「そりゃそうですよ。現実はね、本当に厳しいです。疲れきって家に戻ると、入れ違いのようにシッターが帰っていくんです。子供が泣いていようが腹を空かせていようが関係ない。こっちは着替える間もなく粉ミルクを作ってるっていうのにね。しかも早く帰らせないと残業代がバカにならないんです。下手をしたら手取りの半分以上を持っていかれてしまう。子供のために残業も拒否して出張も断る。飲み会も接待も参加しない。そもそも育児に疲弊して、会社についたときにはすでに疲れているんです。これで出世できると思いますか? 無理ですよ。そのうち誰のために働いているのか分からなくなるんです」
「まるでベビーシッターのために働いているような?」
「そうそう! その通りです。しかも彼女たちは子供の病気には対応しません。そういう契約ですから仕方がないが『熱があるようですがどうされますか?』って会社に電話がかかるんです。どうされますかって、子供が熱を出してるのなら聞く前に病院に走れって思うでしょ? それが会議の途中だったりしてごらんなさい。早退したいなんて言える雰囲気じゃないです」
徒然は頷きながら聞き続ける。
「でも言わなくちゃ子供が……そんな繰り返しは心がダメになります。で、結局依願退職して実家に戻る。なんともお決まりなコースですよ」
「難しい問題ですね。少子化対策なんて言葉をよく耳にしますが、根本からズレてますよ。確かに産まないという選択をした女性も多いでしょう。産んだら育てなくちゃいけないんだ。そしてそのほとんどは女性が担うことになる。そこに不安を感じるという視点が足りてないですよ。金さえバラまけば、喜んでキャリアを捨てるとでも思ってるんでしょうかね」
山中がもう何個目かのビールを空にした。
「仰る通りだ。絶対に間違っています。日本ってこんなにボロな国でしたっけ? 違いますよね? 政治家も経営者もどんどん質が下がっている。要するにサムライがいないんです。このままじゃ少子高齢化が進む一方だ。これは戦争で若者の多くを失ってしまったのと同じ状況ですよ。働き手が減り続けるんだ。経済成長なんて夢のまた夢ですよね。こうなったらもう災害といっても良いくらいだ。自然災害ではなく人災ですよ」
徒然は苦笑しながらも、心の中で激しく同意しつつ口を開く。
「実際に体験した人が『何に困ったか』をまずは改善するべきですよね。それが第一歩でしょう? なにも政治家になる必要はないんだ。政府側がそういう経験者を有識者会議に招へいすべきなんですよ。有識者というのは学者とか評論家という意味じゃない。そのことに特化した経験則を持った人間を指すべきです」
「その通り! ここまで制度を作ってやったんだから子供を産めなんて思ってるんでしょうが傲慢にもほどがある。それならお前がその制度を最大限に活用して、一人で子育てしながら俺たちと同じ給与で国会議員をやってみろってんだ!」
笑いながら何度目かの乾杯をした後、徒然が何気なく水を向けた。
「そういう意味では山﨑さんは良い会社を選びましたね」
「ああ、あいつも再就職には相当苦労したみたいです。面接に来た時、必死な顔で自分の状況を隠さずぶっちゃけましたからね。私も同じ苦労をした人間です。放っておけなかったというのが正直なところですかね。でも良い人材を手に入れたと思いますよ。あいつは優秀です」
「そんな優秀な方が離婚ですか。しかも子供を引き取って?」
「そう思いますよね? 不思議でしょ? 今から呼びます? あいつ絶対に来ますよ」
「え? まあ、そりゃ構わないが、お子さんは?」
「もう小学生になるし、じいさんとばあさんがいるから一晩くらいは良いでしょう。実はね、最近のあいつ、少しおかしいんです。そう、本田さんの奥様を見かけてからずっと。余程の思いが残っているんでしょうね。そんな人に似ている女性を見たんだ。心も乱れるというものです。酔わせて愚痴でも吐かせてやりたいところなのですが、なかなかチャンスが無くて」
「妻を見てからですか? まあ世の中には三人似ている人間がいるって言いますが、そんなに似てるのですかね」
「そうみたいですよ。だから仕事にかこつけて呼んじゃいましょう。ついでに何か旨いもんでも見繕って来いって」
徒然は迷ったが、一気にカタをつけるチャンスだと考え直した。
「そうですね。これも何かのご縁だ。職権乱用で呼んじゃいましょう」
そう言いながらも、徒然は『裕子』に繋がる痕跡がこの家に残っていないかを冷静に考えた。
幸い美咲にとって初めて来た別荘なので、ここに置いているものは無いはずだ。
いや、念には念を入れるべきだろう。
思い直した徒然は、電話をしている山中に手を上げて、手洗いに立つ振りをしてリビングを出た。
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