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語り始めた男
美咲が使ったベッドルームには、仄かに彼女のシャンプーの匂いがした。
ベッドカバーには皺ひとつなく、クローゼットにもドレッサーにも何も残ってはいない。
窓を開け夜風を呼び込むと、海風が美咲の残り香を連れ去ってくれた。
「本田さん?」
リビングで山中の声がする。
「今行きます」
徒然は心の中で美咲におやすみのキスを贈り、窓を閉めて部屋を出た。
「すぐに来ると言ってました。あいつの家からなら1時間はかからないと思います」
「なかなか横暴な上司ですねぇ。ははははは」
「ははは! でも喜んでましたよ。あいつも本田さんと話したかったのでしょう。さすがの本田さんも、あいつのやらかしを聞いたらきっと引きますよ」
「そんなに?」
「ええ、私が言うと暴露だが、本人が言うなら懺悔でしょう?」
「なるほど、それもそうだ。横暴なうえに策士ときたか」
それから二人は他愛もない話をしながら孝志の到着を待った。
「そうだ、テラスに出て見ませんか? なかなか気分が良いですよ」
「それは是非」
ビールに飽きて焼酎に切り替えた山中が、グラスを片手に立ち上がった。
今日は風もなく、波の音も穏やかだ。
「良いですね」
「良いでしょう」
山中がテラスのテーブルにグラスを置いた。
「あいつも苦しんだんだ。でももっと苦しんだ人がいる。あいつは許しを乞える立場にはないですよ。でも子供は別だ。子供には何の罪もない。そうでしょ? 山崎は今、必死で親をやってます。もう本当に必死で」
「そうですか。親になろうとしているんですね。男ってそういう意味では情けないですよ。なんといっても実感がないでしょ? 似てるねと言われ続けてやっと『ああ、似てるのかな』と思える程度だ。母親は産んだ瞬間に親になるのでしょうけれど、父親はゆっくり時間をかけて親になるのかもしれません」
「なるほど、普通はそういうものかもしれませんね。でも私もあいつも何を捨ててでも親にならなくちゃいけなかったという経験をしました。まあ、あいつは今も絶賛継続中ですが。私の場合は愛情というより人道的な心情だったかもしれません」
「山中さんのお子さんは?」
「うちのは娘ですが、ひとりで大きくなったような顔をしてますよ。今は東京の大学に行ってます。さっさと出て行きやがって、私の苦労は何だったんだって思いますが、たまに帰ってきて『お父さん、お風呂沸かしといたよ』なんて言われると、全部許してしまうんです。バカでしょ?」
「さあ、バカなんでしょうか。私にはまだわかりませんが、山中さんのにやけ顔は想像できますね」
玄関チャイムの音がした。
どうやら山﨑孝志が到着したようだ。
美咲の苦しみを思うと到底許せるものではないが、作家としての本能が山﨑の来訪を歓迎している。
山﨑孝志が買ってきたのは、缶ビールとサンドイッチとコンビニのおにぎりと唐揚げ、乾きものが数種類と数個のカップ麺だ。
「いらっしゃい。どうやら君も飲む気バリバリって感じだね」
徒然の言葉に孝志が満面の笑みを浮かべた。
スーツではなくポロシャツとチノパンという姿は、年齢よりも随分若く見える。
この微笑みに彼女は何を感じ、何を求めていたのだろうか。
再び乾杯から始まり、山中の愚痴のような苦労話を笑いながら聞く時間が続く。
どうやら孝志は夕飯も食べずに出てきたようで、缶ビールを飲みながらコンビニのおにぎりを食べていた。
「君って酒を飲みながらめしが食えるタイプなんだね」
徒然の声に孝志が笑った。
「半年ほど缶ビールとコレだけで生きていたことがあるんです。それからですね」
「缶ビールとおにぎりだけで?」
「ええ、妻に出て行かれちゃって何もする気になれなくて。出て行く日に、妻が……あっ、元妻? 前妻? どっちが先なんだろ」
「君って二回も離婚してるの?」
「ええ、恥ずかしながらバツ2の子持ちです。収入も低いし親と同居ですからね、モテる要素は欠片もありません」
徒然は思わず吹き出してしまった。
「一般的には元妻が先かな」
「そうですよね。ははは……元妻が出て行った時に、冷蔵庫いっぱいに缶ビールを詰めていたんです。もう本当にそれしか入ってなくて。それを毎日1個ずつ飲むんですよ。コンビニで買ってきたおにぎりを齧りながらね」
「缶ビールを1個?」
「そうです。1個だけです。無くなっちゃうともう本当に終わるような気がして……もうとっくに終わってるのに。俺ってバカなんだと思います。最後の1個になる前に、同じのを買ってきてまた冷蔵庫いっぱいに詰め込んで。巻き戻した気になって……そんな半年でした」
「何て言えばいいのかわからんな」
山中がうたた寝を始めている。
このまま寝かせても風邪を引くような季節でもないので、タオルケットを持ってきて掛けてやった。
「私が聞いても良い話なの?」
徒然の言葉に孝志がゆっくりと頷いた。
「ええ、ぜひ聞いてほしいです。先生の……奥様にかかわることですから」
徒然は動揺が顔に出たのではないかと一瞬焦った。
「君はワインは?」
「いただきます」
立ち上がりホームワインセラーの扉を開けた。
「このワインはね、妻がとても気に入っているんだよ」
グラスを二つテーブルに置き、慣れた手つきでコルクを抜いた。
寝ている山中のために照明を絞り、テーブル周りにだけダウンライトを当てる。
先ほどまで部屋を映していた窓が漆黒に変わり、テラスに置いたテーブルが、まるで浮かんでいるように見えた。
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