思い出した女

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思い出した女

 薄紫のカバーをかけたセミダブルのベッドに座り、見覚えのない古いバッグの口を開く。 「なんだ、何も入ってないじゃない……まあ、こんなところにレシートが挟まってる」  ヨレヨレのレシートを広げてみたが、字も滲んでいて内容はわからなかった。 「記憶を失う前のものね、きっと」  そう考えると、捨てるのが惜しいような気にもなる。 「もう何も入ってないかしら……ん? これは?」  裕子がバッグの底から取り出したのは、色褪せた一枚の集合写真だった。  バッグの底で裏返ったまま角が折れ曲がっている。  古びたハンカチの下になっていたので、気付かずそのままになっていたようだ。 「同級生かしら。でも私は女子大のはずだし……会社の同僚? 知らない顔ばかりね」  自分の顔を探したが、どうやら自分は写っていない。 「ってことは、写真を撮ったのが私?」  消えた記憶を呼び戻す手掛かりを探して、丹念に一人ずつ顔を見る。  何も見いだせないまま右に視線を移した時、美咲の蟀谷に電流が走った。 「痛っ」  それでも目が離せない。  満面の笑みで写る右端のカップルを見ながら美咲は声に出して言った。 「この女性って、きっとこの人のことが大好きなのね。本当に嬉しそうな顔をしてる。付き合ってたのかな? もしかしたら今頃は結婚してたりして? ふふふ」  裕子はニコッと笑って写真をテーブルに置いた。  もう何も入っていないバッグを、迷った末に再びクローゼットに戻す。  普段使いしているトートバックから、財布などの携行品を新しいバッグに移し替える。  徒然が選んでくれたのは、使い勝手の良さそうな皮のショルダーバッグだ。 「きれいな色……」  美咲が指先で表皮を撫でた。  まるでひまわりの花びらのようなその色は、那須で着ていたワンピースの色だろうか。 「徒然さん、いつ帰ってくるのかな」  おろしたてのバッグをテーブルに置き、美咲は鼻歌混じりで掃除を始めた。  真新しいバッグと古い写真が置かれたテーブルを晩夏の風が撫でる。  風に乱れた髪を耳にかけると、ツクツクホウシの鳴き声が聞こえた。 「あの写真の人……誰だったかしら……うっ……」  美咲は先ほど感じたのと同じ痛みに再び蟀谷を押さえた。 「片頭痛? 薬を飲んだ方が良いかな」  ライティングテーブルに置いている小さな缶を開ける。  それは徒然が買ってきたキャンディの缶で、黒地に薄い紫とピンクの大輪の花がプリントされ、細い金の線で蔦のような模様が描かれている。  美咲はそのデザインが気に入り、空き缶をピルケースとして使っていた。 「確かここに痛み止めがあったはず……ああ、無いわ。あとでお母さんにもらおうっと」  継続する痛みではなかったので、美咲はそのまま掃除を続けた。  ふと座敷の廊下を拭こうかとも思ったが、思い立って徒然の書斎に向かう。 「いつも掃除しなくていいなんて言うから、いない間にやっちゃいましょう」  悪戯を思いついたような顔で、掃除機を手に書斎のドアを開けた。  窓を開けると風が滑り込み、徒然の匂いを舞いあげる。  愛しい人に抱き寄せられたような気分に、美咲は頬を染め掃除機のスイッチを入れた。 「床にまでこんなに本を置いてるわ」  山積みになった本を動かすのは諦め、床が見えているところだけ掃除機をかける。  掃除機のコードが本に引っ掛かり、ひとつの山を崩した。  それを戻そうとして体が当たったのだろう、机の上に置かれていたノートが床に落ちる。  慌てて拾い上げた瞬間、裏庭にいた志乃にまで聞こえるほどの悲鳴が上がった。 「きゃぁぁぁぁぁぁ」  志乃が箒を放り投げて駆け出した。   「美咲! どこ! どこにいるの!」  志乃が見つけた時、美咲は書斎の机の横で蹲っていた。 「美咲!」 「頭が……頭が痛い……割れそう」  志乃が美咲の肩を抱いて立たせる。  近くのカウチに座らせて、額に手をやったが熱は無いようだった。 「大丈夫? 救急車呼ぶ?」  肩で息をしながらもゆっくりと首を振った美咲がやっと口を開いた。 「部屋に……部屋に戻ります」  志乃は何も言わずに頷いて、美咲を抱きかかえるようにして書斎を出た。 「横になっていれば大丈夫ですから」 「わっかたわ。少し休みなさい。水を持ってくるわね」  薄く開けた目で志乃の背中を見た美咲の口が小さく動いた。 「ごめんなさい……ごめんなさい……わたし……」
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