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弱る女
昨夜のうちに予約しておいたホテルにチェックインした裕子は、携帯電話を取り出し友人の澄子を呼び出した。
このホテルを選んだのも、澄子の家から近かったからだ。
「荷物はまだ届いてないよ? え? どうした裕子……あんた真っ青だよ!」
自宅で翻訳の仕事をしている澄子は、呼び出しから1時間もしないうちにやってきた。
「もう……無理なの……あそこにはいられない」
時々しゃくりあげながら、今までの出来事を話す裕子。
ずっと黙って聞いていた澄子が言った。
「出てきて正解だよ。辛かったね……」
澄子の声を聞きながら、どんどん冷静になってくる自分に気付いた。
「頑張ったつもりだったんだけど、顔を見ると殺してしまいそうだったから逃げた」
「忘れろって言うのは簡単だけど、時間が必要だよね。行く当てはあるの? うちに来ても良いんだよ? むしろ心配だから来てほしい」
「行く当ては無いけど、澄子の家は孝志が覚えているかもしれないし」
「そうか。ああ……裕子。可哀そうに……きれいさっぱり忘れる魔法があれば良いのにね」
「魔法か……そうね、全部忘れたいよ」
注文したパスタが運ばれてきた。
フォークを弄ぶようにくるくると回すだけで、口に運ぼうとしない裕子。
澄子がふと声を出した。
「ないこともないみたいだよ? 随分前に翻訳した小説がね、かなり有名な作家さんの目に留まって連絡を貰ったことがあるんだ。その人とはそれきり仕事はしていないけれど、連絡先は残してるの。もしかしたら魔法使いかもしれない」
「え? 魔法使い?」
「魔法使いって言うのは比喩よ。その先生、記憶を買ってくれるんだって。その代わり基本的なこと以外は全部忘れてしまうらしいの。笑いながら言うものだから、冗談だとは思ったのだけれど、なぜか頭の隅に残ってね。もし本当なら試す価値ありかもね」
「そんな事が出来るならいいわね。全財産注ぎ込んでもやってほしいくらいだわ。まあ全財産って言ったって高が知れてるけどね」
「でも、そうしたら裕子は私のことも忘れるってことだよ?」
「そういうこと? 都合よく嫌な記憶だけってわけにはいかないのね?」
「うん、そう言ってた。一種の催眠療法なんだってさ。でも医者じゃないから不法行為ですよねって言ったら、自分は心療内科医の資格を持っているし、催眠療法は民間療法だから、特に資格はいらないんだって言ってた」
「本当かな……本当に全部忘れることができるのかな……」
「裕子?」
「だって、孝志を殺して私も死ぬか、あの二人の前で焼身自殺するかのどっちかしかないって……そんなことばかり考えちゃうんだもん。このままじゃ犯罪者になっちゃうわ」
「それは……」
裕子がパスタに添えられたガーリックトーストに、フォークを勢いよく突き刺した。
澄子の肩がビクッと揺れる。
「わかった、連絡を取ってみるよ。ダメ元でも気晴らしにはなるかもしれないから、やる価値はあるんじゃない? もし全部本当で、裕子が私のことも忘れたら、私の方から無理やりにでも会いに行くから、初めましてから始めて友達になろう!」
裕子が泣き笑いの顔でコクコクと頷いた。
「今日は一緒に泊まる。一晩中おしゃべりしよう。その時に電話をしてみるからさ」
「ありがとう、澄子」
食べようとしない裕子を励ましながら、なんとかパスタを口に運ばせた澄子は、フロントに行ってツインルームに変更する手続きをした。
部屋に入り、シャワーを浴びるように言ってから、携帯電話を取り出す。
シャワーの音に混じる裕子の嗚咽に、澄子はギュッと目を閉じた。
「なんであんたばっかり苦労するんだろうね……」
携帯電話の画面ロックを解除して、登録してある電話帳を上から順に確認する。
「あった……残ってた」
ほっと一息ついた澄子が、バスルームのドアを遠慮なく開けた。
「着替えの下着をコンビニで買って来るから待ってて。何か必要な物がある?」
「じゃあお水買ってきて……ああそうだ、ビールでも飲んじゃおうか」
明るく言っているつもりなのだろう。
瘦せた裕子の背中が小刻みに震えている。
澄子はアメニティが入った籠から、安全カミソリをそっと抜き出してポケットに入れた。
コンビニから戻ると、裕子がベッドに腰かけていた。
テレビは点いているが見てはいない。
小さなテーブルにドサッと荷物を置いた澄子が言った。
「じゃあ私もシャワー浴びてくる。先に飲んでても良いからね」
「うん、ありがとう。ゆっくり温まって」
泣き笑いの顔で裕子が頷いた。
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