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楽しむ女
何もする気になれないまま月日は流れ、玲子の腹だけが膨れていく。
裕子からの連絡は無い。
まるで消えたように何の手掛かりも見つからなかった。
「もういい加減に決めてくれないと困るんだけど」
帰った頃を見計らっては、毎日のようにやって来る玲子。
いつの間に作ったのか合鍵まで持っていた。
「ねえ、もう安定期だからシテも良いのよ?」
「ふざけるな!」
「そんなこと言ったって溜まってるんでしょ?」
下半身に手を伸ばそうとした玲子の手を、乱暴に払いのける。
「まあ怖い。でも検査にだけは一緒に行ってちょうだい。早く離婚してあげないと、裕子さんも再婚できないでしょ?」
「再婚? 裕子が俺以外と結婚するとでも言うのか!」
「何言ってるの。あなたこそ裕子さんとヨリが戻るとでも思ってるの?」
「必ず取り戻す。お前とは絶対に結婚しない」
「だからそれを決めるために検査するんでしょ? 子供のためにも決着をつけましょうよ」
「俺の子じゃなかったら約束は守るんだろうな」
「ええ、必ず守るわ。でもその代わりあなたの子だったら責任取ってよ?」
検査の結果は99.9%孝志の子だと示した。
病院の待合室で膝をついて泣く孝志と、冷めた目でそれを見ている玲子。
「さあ、約束は守ってね。まずは離婚届からね。同時に入籍すれば手間も省けるし。そうそう、ご両親にはいつご挨拶に行きましょうか」
玲子は楽しそうに笑った。
次の日、玲子に手を引かれのろのろと区役所に向かう。
孝志はもう全部どうでも良いと思っていた。
税務や手当の関係もあり、離婚した事だけは会社に伝える。
淡々と処理は進められ、耳の早い同期の友人に昼食に誘われた。
「お前……何で離婚なんか。あれほど好きで結婚したんじゃないか。裕子ちゃん狙ってた奴も多かったのに、おまえが勝ち抜けしたんだぜ?」
友人が孝志の肩を揺すった。
「俺がバカだったんだ。もう……全部終わったんだ。いっそ消えたいよ……」
その後もいろいろ言っていたが、孝志の耳には届かなかった。
やる気の失せた営業マンほど惨めな存在は無いだろう。
資料室勤務に異動を命じられ、日々届く書類を分類してファイルするだけの日々。
「ねえ、あなたの会社って上場企業でしょう? なんでこれだけしかボーナスが無いのよ」
出社している間に引越してきて、そのまま居ついた玲子が、孝志の通帳を片手に怒鳴った。
いつ生まれてもおかしくない状態の玲子が鬼の形相で詰め寄る。
「知るかよ」
休みのたびにあてどなく裕子を探し歩く孝志と、孝志の預金でベビーグッズを買い揃える玲子の間に、平穏な会話などある訳もない。
洗面台に置いていた空のシャンプーボトルもいつの間にか捨てられていた。
産休に入った玲子は、家事もせず大きな腹でふんぞり返りテレビばかり見ている。
ゴミ捨ても掃除も洗濯もすべて孝志がやっていた。
「あなたって本当にマメよね。裕子さんの時もやってたの?」
テーブルに広げたポテトチップスを貪りながら、玲子が鼻で嗤うように言う。
「いや、裕子がすべてやってくれていた。いつも快適な状態を保ってくれていたよ。裕子が守ってくれていたこの部屋をこれ以上汚したくない」
孝志の答えに玲子が呆れたように言った。
「あなたって本物のバカよね」
その声に言い返す気もない孝志は、淡々と洗濯物を取り込んだ。
リビングは物であふれ、寝室にはすでにベビーベットが運び込まれている。
裕子と一緒に眠ったベッドに、当たり前のように眠る玲子を見るたびに、己の恥部を公衆の面前に晒されているような気分になり、孝志はずっとソファーで眠っていた。
「ねえ、それじゃあ疲れが取れないでしょ? 意地張ってないでこっちに来なさいよ」
毎日同じことを言われるが、今日も無視を決め込んでリビングのライトを消す。
それから数時間が経過した頃、ガタンという音がして孝志は浅い眠りを手放した。
寝室を覗くと、玲子が腹を抱えて呻いている。
時計を見ると朝の6時を過ぎていた。
「どうした」
「ちょっと拙いかも……救急車を呼んで」
フッと一息を吐いた孝志が携帯電話を手に取った。
到着した救急車に同乗し病院に向かったが、何の感慨も湧かない。
玲子は無痛分娩を選択していたので、到着からものの数時間で出産した。
「おめでとうございます。男の子ですよ。無事に生まれて良かったですね」
待合室でぼうっとしていた孝志に看護師が声を掛けた。
「そうですか。男の子ですか」
看護師は無表情の孝志に向かって、様々な手続きの手順を説明した。
「母子ともに無事ですから安心してください。もう赤ちゃんも抱けますから行きましょう」
看護師の声に腰を上げた孝志は、会社に休むことを伝えていなかったことに気付いた。
「ちょっと電話をしてから行きます」
資料室に電話をかけると、たった一人の上司が出た。
「すみません。連絡が遅くなってしまいました。今ちょっと病院にいて今日は行けそうにありません」
上司の男は理由も聞かず、明日は来れるのかとだけ確認してきた。
「はい、明日は出社します」
電話を切った孝志は、もうどこにも居場所が無いと思った。
病室に入ると、玲子の横で眠る新生児の姿。
この世に出てきたばかりの細い足首に巻かれた白いネームタグが、まるで自分の首に付けられた首輪のように見えた。
呆然とする孝志を見て玲子が言う。
「あ~楽しい! あなた最高な顔をしてるわ! もうホント最高!」
まだ麻酔で朦朧としながらも、そう言い放つ玲子が鬼に見えた。
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