閉ざす男

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閉ざす男

 それから数日、週末を利用して玲子を退院させた孝志は、出生届を出しに行った。 「おめでとうございます。赤ちゃんの名前と誕生日を記入してください」  あれだけせっつかれても思いつかなかった我が子の名前。  じっと出生届を見詰めていた孝志が、ボールペンを動かした。 「山﨑一人ちゃんですね? 『かずと』と読むんですね? はい、それでは出生届を受理しました。赤ちゃんの載った戸籍謄本は必要ですか?」 「いえ、必要ないです」  怪訝な顔をした担当者にぺこりと頭を下げて、孝志はそのまま街に出た。 「ああ、あそこは……裕子と行った喫茶店だ」  ふらふらと店に入り、裕子が好きだったウィンナコーヒーを注文する。  雪山のように生クリームが盛られたコーヒーカップを前に、孝志は涙を堪えることができなかった。 「裕子……俺、父親になっちゃったよ……」  なぜ玲子はここまで俺に執着するのだろうか。  学生時代には恋人として付き合っていたし、当然だが体の関係もあったが、互いの若い欲を発散させるためだけの関係ではなかったのか?  いくら考えても孝志にはわからない。  卒業を前に距離を置こうと言いだしたのは孝志の方だったが、玲子もあっけらかんと同意したはずだ。   偶然再会し、懐かしい気持ちになって昔の仲間に声を掛けたことまでは良くある話だろう。  男4人と女2人で組んでいたサークルのバンド仲間が久しぶりに集い、楽しい時間を過ごしたのだが、その後が拙かった。  帰る方向が同じということで玲子を送ることになった孝志は、階段を上がることもできないほど酔った玲子を抱きかかえ、鍵を開けてベッドに運んだ。 「なんでそのまま帰らなかったんだろう」  酔った玲子のはだけた太もも、つい手を伸ばしてしまった。  浮気をしているという背徳感が孝志の心を余計に煽る。 「バカだ……」  別れてからどんな暮らしをしていたのかは知らないが、玲子のベッドテクニックは孝志を虜にして離さなかった。  就業時間になると、玲子の匂いを思い出すようになり、休日も言い訳をして彼女のマンションに足を運んだ。  裕子を愛しているという気持ちに代わりは無いが、この快楽を手放す決心ができない。 「子供か……」  自分が発した声に、鉛を飲み込んだような気分になる。  コーヒーに溶けていく生クリームの泡に、裕子の笑顔を探す。 「さようなら……裕子」  子供のために心を閉ざすしかない。 「変わってるわね」 『一人』と書いて『かずと』と読ませると伝えた時、玲子は呆れた顔をした。 「他に浮かばなかったんだ」 「別に名前なんてなんでもいいわよ」  投げ捨てるようなその言葉に、自分がちゃんとしないとこの子は生きられないと実感した。  役職手当も扶養手当も無い孝志の給与では、かなり厳しい生活になることは必定だ。  マンションの頭金にするために、せっせと裕子が貯めてくれていた預金で、出産費用を払った時の罪悪感は一生忘れないだろう。  なんで裕子は預金を持って行かなかったんだろう。  渡していた生活費の残りにさえ手をつけず姿を消した裕子。  裕子が苦労して貯めた金を、何の躊躇もなく使う玲子。 「人間のクズだな」  この子だけは自分たちのようなクズには育てまいと心に決め、孝志は少しずつ前を向こうともがき始めた。  それから半年、玲子が仕事に復帰すると言いだした。  孝志の仕事は相変わらずで、昇給も昇格も見込みはない。  玲子の収入があれば、少しでも生活が楽になると思い賛成した。  一歳にも満たない息子を預けるためには、かなりの費用が掛かるのだ。  しかし、玲子の反応は予想外のものだった。 「私は一円たりとも出さないわよ。あなたの子なんだからあなたが何とかしなさいよ。そうだ、お義母さんに頼んだら? 孫なんだから可愛がってくれるんじゃない?」  俺の子ではあるが、お前の子でもあるだろうと思ったが、なぜか言葉を飲み込んでしまう。 「相談してみるよ。そうなると実家に帰る必要がある。お前も引っ越すことになるぞ」 「何言ってるのよ。私は行かないわ」 「じゃあどうするんだ」 「だから言ってるでしょ? あなたの子なんだからあなたが何とかしなさいよ」 「お前という女は……子供への愛情は無いのか!」 「無いわ。私の復讐は終わったの。もうあなたもその子も用なしよ!」  孝志は立ち上がり、玲子の首を掴もうとした。  このままいっそ殺してやろうと思った瞬間、寝室で息子が泣き始めた。 「出て行け!」 「何言ってるのよ。ここの家賃は私が払ってるの。契約更新の時に契約者名義も私に変えたわ。出て行くならあなたとあの子よ」  孝志は歯を食いしばった。  寝室に向かい、弱々しく泣く息子を抱き上げる。 「お前は狂っている」 「何とでも言いなさい。先に捨てたのはあなたよ。今度は私が捨てる番なの。ざまあみろ!」  泣き止まない息子をあやす孝志を見て、玲子は声を上げて嗤った。
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