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穂乃花の困惑
穂乃花は困惑していた。堂島 鉄平は1年後輩にあたる部署のマスコットキャラクターのような存在だ。何か怒らせるようなことをしただろうか? 考えてみても全く思い当たらず穂乃花はひっそり視線を落とす。
穂乃花は誰にも深入りしないようにしていた。平和に過ごしたいからというより、誰かに特別な感情を抱くことに漠然と恐怖を感じていたからだ。だから、人当たり良く、常に冷静であろうと意識している。たとえ嫌いと言われても平気なはずだ。
「あなたの字、嫌いだー」
ピクリと一瞬手が震えた。今日1日付きまとうと宣言した鉄平は事あるごとに「嫌い」と口にする。穂乃花は困惑を深める。鉄平の明るくて人懐っこい性格と誰かを攻撃する言葉がまったく一致しない。
「穂乃花さん、大丈夫?」
「えぇ、大丈夫」
鉄平に睨みを利かせながら気遣ってくれる周囲に穂乃花は微笑んで頷く。ちょっと胸がちくっとするけれどある程度聞き流せているから大丈夫。自分に言い聞かせる響きが滲みそうな時はお手洗いへ。そこには付いて来ない。初回にうっかり付いて来ようとした時に割と真顔で「セクハラ?」と聞いたら涙目で否定して叫んだのを思い出せば笑ってしまいそうになる。
「いくら嫌いでも、絶対そんなことしません!」
何というか、とても必死だった。静電気が起きやすい髪がふわふわと浮いていて余計に可愛らしく見えた。そういえば鉄平のあだ名は雷小僧だ。静電気によく弾かれながら、仕事は元気に駆け回る。頼まれて嫌な顔をしたことはない。
「どうしてかしら」
突然嫌いと言われるような原因はやっぱり浮かばない。昨日までは普通だった。鉄平は異動の人を前に送別会でも泣いたのに最終日も泣いてなぐさめられていた。そう、ハンカチを貸した。目を潤ませたまま八重歯を見せて笑って受け取った鉄平は頭を下げた。そう、お礼と明日からもよろしくお願いしますって。
「草織さん、疲れているね」
「え? そんなこと……あるかもしれないわ」
トイレの鏡を前に考え込んでいたのを見られたのだ。否定しても説得力がない。力なく苦笑すれば同期の浜津 利絵が元気出せというように肩に手を置いた。
「正直私達も困惑しているんだよ、だってあの表情がね……」
「表情?」
「……見てないんだ、鉄平くんの顔」
そういわれると後ろめたくて目を逸らす。だって、嫌いと言う人間の顔なんてあまり見たくないじゃない。内心の言葉が聴こえたように利絵は励ますように背を叩いた。
「まぁ、見たら見たで混乱しそうな気もするから見ないのは正解かもね」
余計に気になる。穂乃花はリップクリームを塗り直し仕事に戻った。今日は終業後に新入の歓迎会がある。長い1日だ。
「定時ギリギリまで仕事に取り組むところ嫌いだなー」
今日何度聞いたかわからない「嫌い」に視線を向けた穂乃花は鼓動が跳ね上がった。鉄平は嫌いと言いながら幸せそうに笑っていた。え、そんな顔して嫌いって言っていたの? ずっと? 鉄平は何を考えているんだろう。動揺を隠してきっちり後片付けをする。隣で鉄平が目を細めて呟いた。
「その片付け方も嫌いだー」
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