《嬉しい》

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《嬉しい》

 銭湯業務に励みながら納得がいくような作詞を書いていく鏡梨ではあったが、久しぶりに双葉が閉店間際ではなく営業時間内に来店してきた。  客たちは賑わいをみせて歓迎し、じいさんやおっさんたちと共に双葉は銭湯でのんびりとまどろんでいる様子だ。  途中で鏡梨が銭湯業務でサウナの室内に入ると、周さんとまたいがみあいながら汗を搔いているのが見えた。 「てめぇ、みんなに好かれているからって調子に乗んなよ?」 「乗ってねぇよデブ」 「……その言葉覚えておけよ」  客たちが二人の刺青の男に畏怖して去る頃に、鏡梨は「案外仲が良いんすね」などと言ってさりげなく注意をした。  銭湯業務が終わり部屋へと舞い戻りリリックを書き上げた頃にガチャリと音がした。漢方の香りを漂わせた双葉がタオルを首に下げてやってきのだ。  鏡梨は「またあんたかよ」などと言っては勝手に窓を開けて勝手に煙草を吸い始める双葉へ悪態を吐く。 「父さんに許可取って部屋に来たのか? 来てないのなら出来上がった譜面見せねぇぞ」 「……書き上がったのか。見せてくれ、それ」 「父さんに部屋に入る許可取ったか?」 「俺はお前のマブダチだから顔パスでオッケーだ」  なんていう奴だとか思いつつ譜面を見せる。煙草を吸いながら読み込んでいく精悍で野獣のような顔立ちの横顔に見惚れつつ緊張していると、双葉は息を呑んで「明日、プロデューサーの所に行くぞ」などと言い出したのだ。  呆気に取られる鏡梨に双葉は「これはすげぇ……」と褒めてくれるではないか。鏡梨は顔を紅潮させて目を伏せ「そんなでもねぇよ」そう言ってはぐらかす。だが双葉は瞳を輝かせて「これは絶対にプロデューサーからオッケーもらえるぞ」そう断言したのだ。――それがとてつもなく嬉しかった。ずっと言われ続けたいほどに。 「そ、そうかよ」  だが天邪鬼な自分はもっと褒めて欲しいなんて強請れない。しかし双葉はそんなことなど知っているのかと思うほど褒めてくれるので、とてつもないほどの幸福感に抱かれた。  翌日。女装をし、窓を伝って降りたところに参上すれば双葉と九条が来ていた。二人とも唖然としている。 「こ、こんな高い所から降りてくるんすね。すごいっすね……」 「そう? 俺はもう慣れたけど、っね!」 「あ、パンツ見えた」  飛び降りる際に男物のパンツが見えてがっくりと肩を落としている双葉を尻目に鏡梨は九条にも譜面を見せておいた。  読み込んでいく九条の顔はどんどんと明るくなり「いけますよ!」そう自信に満ち溢れているような声色になっていた。 「そ、そうかな?」 「そうっすよ! こんなすごいリリックであればプロデューサーも気に入るっすよ、絶対! カガリさんはすごいっす!」 「あ、ありがとう……」  糸目の瞳を爛々とさせて喜んでいる様子の九条には礼が言えたので少し驚いていると「ちょっと待った」なんて言って双葉が顔を近づけていた。 「お前、俺の時と反応が明らかに違うじゃねぇかよ、え?」 「べ、別に……。そんなことないし」 「俺のマブダチだけずりぃぞ。九条も言ってやれ。――このツンデレ天邪鬼によ」  グイーと頬を引っ張られつつも九条が宥めているさなかで鏡梨はどうして双葉には冷たくなってしまうのだろうかと、痛い思いをしながら考え込むのだが、答えは出ないので、「痛てぇから」などと言って腹パンをし、その場を凌ぐのだ。  事務所へ着いて部屋へ通されプロデューサーの前に見てもらうと、第一声が「よく頑張った」であった。初めて癖のありすぎるプロデューサーに褒められて鏡梨は喜びを通り越して緊張してしまった。  罵声を抑えつつもほどよいフレーズとヴァースにフローはなかなかのものであり、曲名とマッチしていると言われ、さらには抑え込んでいたパンチラインが一気に放出されたのが良かったらしい。  気難しい人に褒められるのはこんなにも嬉しいものなのだなと笑顔で答えていく鏡梨の姿を、双葉はふと見て微笑んでいた。  ふっざけ騎士(ナイト)は双葉のデビュー曲になり、初めての大舞台で披露をする予定だ。  曲としてはカガリが、いや、鏡梨の仕上げていた曲でライブを盛り上げるらしい。緻密な打ち合わせを終えて帰宅しようとすれば、「ちょっと待て」そう双葉に呼び止められた。なんだと思い尋ねると「これから飲みに行こう」と誘ってきたのだ。  普段の鏡梨であれば断固として行かないし、早々に帰って風呂に入って曲作りをするのだが……今日は違った。今日は普段よりも気分が良く、羽を伸ばしたいくらいであった。今日は面倒な誘いにも応えられそうだ。 「あんたの奢り?」 「おう。メジャーデビュー祝いでもあるしな。九条も行くだろう?」 「もちろんっすよ」  九条もにこりと微笑んで財布を取りだしたので、鏡梨は二人の行きつけの居酒屋へ行くことになったのだ。――いわゆる打ち上げであった。
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