《思いやりの苦み》

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《思いやりの苦み》

 一つの壁を乗り越えたおかげで鏡梨は新曲を執筆することに集中することができた。今回はバラード調のラップを書いてくれとプロデューサーから命じられていた。  まだ池田の件で不安はあるものの、父親の鏡史に告げることができたおかげで堂々とリリシストとして目を向けることができた。  デビューしたばかりの双葉もそうだが、アマチュアかつフリーで書いていた鏡梨もそうだ。プロを目指すにはそれだけ売れさせることができるほどの曲数を執筆しヒットさせることだ。  売れない曲を書き続ければ男らしく観客を盛り上げることができるパフォーマンスを持つ双葉……いや、早芽を引き立てられない。  デビューしたばかりの双葉が歌い上げたヤットこ騎士(ナイト)やふっざけ騎士(ナイト)の騎士シリーズには、ありがたいことにSNSで評判が良く、少し前にテレビでも披露することができた。結果は上々だ。  今度はチョコレート会社とのタイアップ曲を仕上げることになったのだが、その曲調がバラード調なのだ。鏡梨としては果たしてこれはラップでやるべきなのかと考えてしまうほどである。  クライアントの意向としては『優しく抱擁されていて大人っぽい、ほろ苦くも甘いリリックを書いて欲しい』という注文を受けている。 「大人っぽくてほろ苦くも甘いフレーズ……ね」  なんて無茶な注文だと思う。しかも優しいはともかく抱擁とはどういう意味であろうか。  鏡梨は銭湯業務に励みながらも片手間で恋愛小説を読み漁った。最近流行のものから昔のものを読み漁ってみたのだが、ふと目に付いたのがなんとなく手に取ったBL小説であった。  絵柄に惹かれて購入し、まさかのBL小説で驚愕したものの作品の世界観に惹かれてシリーズで購入してしまった。  まぁ、自分と双葉の関係性もどうすればいいのかなとも思って興味本位で読んでみたのもあるが。  その話はラップとは違った意味のアウトローな世界観であった。  主人公は医者なのだが現実の医者に失望し、その日暮らしの労働現場で診療所を経営することになったという変わった設定なのだ。  出てくる登場人物にはシリーズを読むごとに光と影があり、こんな世界もあるのだと思うと自分はなんて甘ちゃんなのだろうかと思ってしまうほどだ。  シリーズのたびに立ちはだかる壁があるのだが、主人公は愛する者や友人と共に解決をし、最終的にはすっきりと終わる形なのが読者としては嬉しいものである。  そんな中で主人公は愛する者と別れる時が来てしまうのだ。その日暮らしの人間だが愛する者には神懸かりのある才能のおかげで人生をやり直せることができる。―― だが、その代わりに愛してはいるが物理的に離れないとならないのだ。 「それって苦しい……よな。人生をやり直せるけれど、愛している人と離れないといけないなんて……」  読み進めていくうちに鏡梨はこの後の二人はどうなるのだろうかと思った。最近流行のメリーバッドエンドという終わり方で二人で仲良く暮らすのか、けじめをつけて離れるのか。  ページを進めていくスピードが速まる。読書をしてきているおかげで集中すれば文庫本なら一日で読めるくらいにはなったのだ。  だがそれ以上に、この物語の終わり方が気になった。  どんな終わり方をするのだろう。  ――ページがあとがきになる頃には、読み終えてフレーズを書き記しリリックを組んでいた。  優しさだけがすべてではない。優しいだけでは務まらない。  そして抱擁されているような密着感のなかに訪れる悲しみと寂しさをほろ苦くさせるニュアンスを含ませた。  だがそれだけではただの自己完結だ。  双葉の持つ大胆だがおおらかで包容力のあるような歌い方をすれば、抱擁さや優しさはそこまで書かなくとも伝わるはずだ。  それを信じられるくらい、双葉はプロへと近づいてきている。以前、双葉に「鏡梨は良い意味で化け物だよな」なんてニヒルの微笑みながら煙草を吸っていたが、双葉だってそうだ。  双葉もめきめきとプロへと上達してきている。感情を音と身体と声で表現できるほどの化け物へと成長してきている。  自分も頑張らなければと思いながら鏡梨はリリックを書いていく。  気が付けば日がとっぷりと落ちていた。腹が減っているのは当たり前だ。夕飯を食していなかったのだから。 「……ご飯食べに行くか」  部屋から出て客に挨拶をし、リビングへと向かう。  部屋を開けるとカレーの匂いがして――双葉が黒ビールを飲みながら微睡んでいた。 「はっ……? なんで、双葉が居るの」 「おぅ~鏡梨か。いや~、お前が集中してリリック組んでいるのを知っていたからさ。なんか待っていたら、女将さんに夕飯食べて行かないかって言われてさ」 「……そんで居るってわけか」 「おうよ」  ビールを煽りながらチキンカレーを食している図々しい双葉に息を吐きつつ、自分もカレーをよそって置かれているサラダに手を伸ばした。  今夜は卵サラダにオニオンスープにチキンカレーらしい。母親は鏡梨の代わりに銭湯業務をしていると双葉から聞いた。  チキンカレーのさっぱりとしていてコクのある味わいはとても美味だ。  オニオンスープのとろりとして深みのあるバターが効いた味わいも美味である。 「うまい……あ」  フレーズでいくつか思いついた。『引き裂かれない』『心は離れない』『脳裏に焼き付くこの鼓動』などだ。 「ん? なんだよ急にさ」  双葉の顔をじっと見た。ビールを呑んで間抜けな顔をしているが、自分の愛しい人だ。  自分はまだ双葉とは離れられない。離れるのだとしたら……。 「お前と離れるとしたら、ちゃんと思いやりをもって、だな」 「はぁ?」  また間抜けな顔をする双葉の顔に鏡梨は構わずに食して平らげたのだ。
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