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「三日後に、俺、引っ越すから」
同棲をしてちょうど二年が経った頃、聡史が突然、そんなことを言い始めた。
「え、ちょっと待って、冗談でしょ?」
「……いや、本気。三日後に荷物だけ取りに来るから」
聡史の表情は真剣そのものだった。聡史が冗談を言っていないことは、嫌でも伝わってきた。もう、十年も付き合っているのだから。
でも、だからこそ、混乱した。何を言っているのか、わからない!
「わたしたち、別れるってこと?」
聡史はわたしに背を向けた。
「……そういうことになるかな」
「そういうことになるかなって、他人事みたいに言わないでよッ!」
聡史の肩に手をかけ、振り返らせようと力を込める。
だが、聡史はそれを物ともしなかった。わたしの手を肩の動きで軽く払いのけ、玄関へとずんずん向かっていく。その歩みに、たしかに強い意志を感じた。
「ちょっと、待ってよッ!」
終わるにしても、こんな終わり方は嫌だった。もう十年も一緒の時間を過ごしてきたのに、こんな最後なんて……! たとえ、最後だとしても、わたしの気持ちを踏みにじるようなやり方は、辞めて欲しかった。
……らしくない。こんなのッ、聡史らしくないッ!
そこではっとした。別れることばかりに意識が持っていかれてしまったが、理由があるはずだ。聡史は理由もなく、こんなことをするタイプの人間じゃないはずだ!
「理由、別れる理由を聞かせてよッ!」
「……ごめん」
聡史はそれだけ言い残すと扉を開け、そのまま姿をくらませてしまった。
わたしは、聡史を追おうとした。でも、力が入らなかった。膝が、途端に力を失い、わたしは崩れ落ちた。それだけ、ショックが大きかったということだ。
両手で顔面を押さえつけた。何とか涙を止めるために。だけど、それは意味がなかった。涙は両手の隙間から零れ落ちていく。
わたしの人生は聡史と歩んできた。だから、聡史のいない人生なんて、想像もつかなかった。
このまま、聡史と結婚し、二人とも欲しいと思っている子供を授かり、時に喧嘩をしながらも、幸せに暮らしていくものだとばかり思っていた。
実際、そういう話をし始めていた。子供は二人欲しいよねとか、子供にどんな習い事させようかとか、学校は私立にしたいねとか、結婚式はどこがいいかなとか、誰を呼ぼうかなどなど。
そんな矢先の出来事だったから、なおのこと、わたしへの衝撃は大きかった。
「わたしの、何が、いけなかったの……」
絶望の慟哭だけが、部屋に響き渡った。
その後、聡史は音信不通になった。電話をしてもメールをしても何をしても無駄だった。既読すらつかない。
そして、仕事も突如辞めたようだった。
緊急連絡先がわたしになっており、わたしに電話が来たことで判明した。どうやら、突然辞表を出し、引き留めの言葉をかける間もなく去っていたらしい。
一応、事情がわからないために、退職扱いにはしていない、とのことだった。
聡史は普段、そのような突飛な行動はしない人間だ。
わたしは聡史に捨てられた絶望よりも、聡史の異常さが次第に心配になっていった。
聡史の両親に連絡を取ってみたが、両親にも何も知らされていなかった。
聡史にはお姉さんがいるのだが、お姉さんも何も知らないとのことだった。
行方不明。
その表現が最も適切に思えた。
わたしや聡史の家族は話し合いの場を持ち、警察に届けを出すかどうか、真剣に検討を始めた。
ただ、すぐに出すことはやめた。聡史は三日後に荷物を取りに来ると言っていた。警察に届けを出すとしても、そこまで待とう、という結論になった。
そして、三日後、聡史はわたしたちの同棲していた部屋に現れた。
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