明日はエイプリルフール

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「明日は、4月1日 金曜日」  明日はエイプリルフールだ。こどものころ、エイプリルフール、エイプリルフールってなんであんなに、はしゃいでいたんだろうか。エイプリルフール的な、話し方が好きだったママも、もうエイプリルフールのことははなさない。難しい顔をしてフォークナーを読んでる。わたしも、もうエイプリルフールは、好きじゃない。  エイプリルフールで盛り上がった頃は、子どもだったから、と想う。  そうはいっても、世の中は、きっと明日のために、虚構記事、をつくっているのだろうか。虚構記事は、作り手の嗜好がはいる。だけど、やっぱり、もう、わたしは虚構記事にも、趣味の悪い大人の悪戯だと想う。  エイプリルフール、といってハハハハハと、笑いあっていたころは、少女だったと想う。もう、エイプリルフールは趣味の悪いおとなたち、の騙し方、であって、胸の奥が苦しい。たぶん、わたしは、東京へ来て、地方人の女の子の夢を、エイプリルフールもいいかげんにしてくれよ、という僕たち東京人の特権階級的なワードチョイスが好きじゃない。  エイプリルフールということばも、地方人の夢を、エイプリルフールもいいかげんにしてくれよ、と僕たちの世界に決していれてくれない、都会人の嫌味な言葉だと知った。  だから、きっと、テレビでは愉快で楽しいことみたいに報道している、ことテレビでエイプリルフールです、って笑っているキャスターたちに、いい気持ちをもてない、ひとがブルージーンズかかえて、天井に向けて、ボールを投げてたりするんだってこないだ読んだ本で知った気がする。  NYのひとには、エイプリルフール、というバカ騒ぎよりも、satori悟り、ということばの方が大切な男子がいるそうで、satoriは、キックされて、ぼこられて、目から火花が飛び散ること、をそう表現されるらしい。なんか、日本の瞑想をして悟りを開くよりも、キックされて、パンチされて、ぼこぼこにされて、そこに救いはあるのか、という男子の間でsatoriということば、そのあとに、座禅を組んでひたすら悟りを開くというのが流行している。なんか、わかる。東京もそんな感じで、東京で故郷自慢など、したこともない。なんでか、っていうと、やっぱり東京が日本でいちばんの大都市だからだ、きっと。  でも、エイプリルフール、っていう映画つくってみたい。50年代みたいな白地に赤い水玉みたいな、ワンピースを着た女性が、ジェームスディーンみたいな男性と踊っているみたいな映画。ことば、ってほんとうに、人を、東京の人がいうエイプリルフールもいいかげんにしてくれよ、と残忍に傷つけ、無視し、存在を、あれ、いたの、みたいに、するもの、から、なんの娯楽もなく、四人家族が集まって、面白いはなし、をする、感じで、でも、それが女性のとっておきのエイプリルフール、だった、みたいな、オーヘンリーの賢者の贈り物ぽい、エイプリルフールだと、男性は時計を売って髪飾りを買い、女性は、髪を切って、チェーンを買ったとみせかけて、かつらをかぶって、エイプリルフールよ、と笑って抱き合って、回転しあう、みたいなの、いいな。今日は、曇りときどき雨。明日もきっと曇り。エイプリルフールにどんな偽造記事、ばらまくんだろう。わたしは、本棚から本をひとつだしてベットで横になりながら読む。ニューヨークではテレビは貧困層のものです、とある。やっぱりな、って想う。でも、テレビをみて、眠ってて、目が覚めたら、夜の砂嵐になるのは好き。なんか東京のひとり暮らしっていう感じがする。テレビはお兄ちゃんのお古。来月になれば、大学三年生。大学の入学案内で、気に入った先生の授業が始まる。Lisp入門だ。あたらしい言語。先生は厳しくてCかDしか下さらないらしい。パンフレットでみた感じと声が違う。パンフレットでみた感じは、大河ドラマ宮本武蔵の本阿弥光悦役に似ていらして、計算機室でも、笑顔で生徒の間を、まわっていらっしゃるようなお写真は素敵だった。明日、クッキーでも焼いて教授室にもっていこうかな。
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