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繁り連なる苦竹が、仰ぐばかりにうず高い。雲間も遠い昼日中、あまり風も吹かないもので、額に汗を拭いつつ、庭の裏手の竹林で、袴の裾を汚している。
今日、私が越してくるまでは、五年は空き家だったらしい。それが割には小綺麗に、庭の隅まで芝に青い。
越して初日の陽のうちに、一人難儀な竹退治。錆びた小ぶりの鋸だけでは、どうにもならず息を吐く。
ふと、生垣の先の沿道に、薄い鼠の京小紋。肌白の首を覗かせて、一人の女が立っていた。齢は四十の坂を登る、見るにたおやかな婦人なり。
こちらの視線に心付くと、瞳を落として気まずげに、しかしすぐに居直って、小首で涼しく会釈した。
「どうも、御挨拶もしませんで」
「いえ、私の方こそ。何、今日越してきたばかりで、右も左も誰ともやら。梅と杏の区別もつきません。ご婦人はいずれ……近くにお住まいですか?」
「二坂越えて、半里ほどのところに」
「それは、おんな脚には大変な道筋でしょうに。そうまでしてここへ、一体誰にお会いに?」
「誰にというわけではありませんが……その、群竹の調子を伺いに」
「おや、私の行く手の難敵は、よもやご婦人の仇敵でしたか。竹は絵巻に見るが良い、隣人にしては恨みものだ。放っておくと、庭に家財に人までも、その筒でそっくり呑み込んでしまうと言う。根は海より深いと聞くから、見えないものはどうにもなりませんが、せめて稈を切り倒して、物干し竿にでも使ってやろうと、鋸一つで息巻いてみたものの、いや、どうにも。着物を駄目にしたばかりで」
「切ってはなりません」
思い外れに強い口調。私は少しくたじろいで、婦人の顔を探り見る。細い眉の両端に、かすかに力が込められて、あかあかと燃える想慕の影が、真白い頬に紅を差した。
「いえ、ごめんなさいね。あの、その、竹はここらに馴染みあって、何にもない片田舎ですから、私のように、ほら、古い者には想い入れが、一ほどぐらいはあるもので。あなたは、こちらにお住まいになられるって。それはもう、今は見知らぬ隣人でも、いずれは親の敵とも、相成るものでしょうけれど、私合点で失礼ですけれど、竹は」
急に熱した感情に、婦人自身も驚いたと見える。一つ束ねた黒髪の、おくれ毛を撫でて取り繕う。
「ねぇ、どうかお止めになって」
「あなたがそこまで仰るなら、私は構いませんが。いや何、どのみち手足も胴も何も出ない。これは諦めるしかないと思いはじめたところです」
「まぁそうですの」
と、この日一番高い声。
「だけど、私、無礼を言ってしまって。ねぇ、お怒りでしょうけれど、田舎女のさすらい癖に、前も後ろもありません。どうかお許しになって」
「許すだなどと……私は怒ってなどいませんよ」
錆は掌に移りこみ、土と一つの画を描く。汚れた両手で汚れた裾を、努めてしずかに振り落とす。不思議に青い芝の上に、落ちて跳ね返る陽がために、婦人の肌は輪郭を失くし、その白さだけが小紋を纏い、錆の一つも無いほどに、陽炎の中にうすぼやけた。
「お礼と致したいものですけれど、何のおあしらいも出来ませんで」
「お礼に値することをした覚えはありませんが」
言いつつ私は目を細めたが、婦人の姿を見るためか、まばゆい陽を遮るためか、自分事にも判然としない。
「ところで、ここの庭は随分整っていますね。誰か手入れでもあったのでしょうか」
「さぁ……庭を想う人でも……いるのでしょうかね」
「聞けば五年ほど空き家だったとか」
「五年と、七ヶ月です」
「前の住人はどのようなお方でしたか。やはり竹の悪行に腹を握られ、砂埃を後ろ足に、唾吐きながら出ていったのですか」
軽風がわりに冗談めかし、私はわざと小憎んだが、婦人は楚とした顔を崩さず、白い喉をころりと鳴らし、
「いいえ、私は、あの方のこと、ほとんど何にも知りませんで」
と言った。婦人は瞼のその先に、何かを浮かべてまた消して、忘れるようにまじろいだ。
「少しは知っておられるのでしょう? お礼と言いましたが、それでは、その方のことを少し、お話願えませんか。いや、失礼……あまりに自分行儀が過ぎる。不躾でしたか」
「いえ、いいえ……そうね、そうですね。私の知るかぎりで良ければ、お話いたします」
色も無く燃える片里に、その声だけが冷たかった。
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