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「もしもあなたが一人きり、頼る明日もそこに無く、全てが消えて失くなってしまう、そんな哀しみに押し潰されて、風の代わりに息だけが、ただ息だけが荒ぶ日が来れば、どうぞこの笛を吹いてください。その時には、必ず自分が迎えに行きますから……と、そんな様なことを、清隆さんは言いました。一人くらりの哀しみなど、まだ知るあても無い頃でしたが、その言葉の横顔に、清隆さんの心が見えて――いえ、見えたような気がして、絹にとって、とても忘れられない、それは契りで、そして呪いでした」
帰り道を忘れたように、風の音はまだ聞こえない。
「――思えば」
婦人は、一呼吸置いて続ける。
「思えば絹は、清隆さんのことを、何にも知りませんでした」
陽炎の向こう側に、もはや伺い知れぬ色は、雲より遠く揺れていた。
「父との関係も、産まれた土地も、年齢だって。そして心も。まだ作りかけの傘だけで、何からその身を隠していたのでしょうか。ただ一つ、大切なものを失ってしまう哀しみを、あの人はきっと知っていたのだろうと、それだけは。それだけは絹にも痛く伝わりました」
風の音はまだ聞こえない。
「清隆さんは、何故ここを払ってしまわれたのですか」
「病の、療養のためです」
婦人はまた涼しく応えた。どこかに形を置き忘れた、木霊のような声だった。
「肺結核です。ちょうど、絹の父を奪った、あの。故郷へ帰ったようです。それがこの世のどこなどと、もちろん知るはずはありません。必ずいつか帰ってくると、これが二つ目の約束です。その日から、絹は待ちました。かつて流れた幸せが、廻りめぐって帰り来て、今度こそ、夢の途中で泣き終わることなく、想いの果てへたどり着くと、そう信じていましたが、何の便りも無いままに、月日は過ぎて、一年、二年。今で五年と、七ヶ月です」
汗は、額から眦を通り、頬を流れた。婦人もまた、涼し気な顔の水底に、凪を怖れる目があった。
「ああ、あんまり永く……永く話したもので、私はもう、疲れてしまいました」
小紋の袖をはためかせ、婦人はかすかに微笑んだ。
「それで、絹さんは、竹笛を吹きましたか」
「……約束は、待つうちばかりが幸せです」
触れれば通り抜けそうな、喉の白さが痛かった。
「随分長く付き合わせちゃって、ごめんなさいね。それじゃあ、私は帰ります。新しいお住まい、どうぞ大切になさってくださいね」
裾を押さえて翻り、去り行きそうな婦人へと、私はついたまらず聞いた。
「あなたは今、お幸せですか」
聞いて不粋と心付いた。しかし訂しはしなかった。
婦人は真も嘘も無く、ただにこりと微笑んだ。その時ふと、雨の日にでもこの人は、傘を差さずに濡れるのだと、それが迷いを洗い流し、これほどまでに白いのだと、思い至った絵姿が、正しいものかは分からない。
婦人が去った後、私は掌をもう一度、白日の元で照らし見た。永い月日を蝕んだ、錆は一雨そこらでは、とても落ちそうに無かった。
ため息と共に顔を上げると同時、一筋の風が吹き付けて、群竹がさあさあと音を立てた。いつかどこかで知っていたような、なつかしい匂いがした。
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