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麗らかに 天に溶け出す 桜色
「あの、」
少し古びた校舎の最上階、奥で隠れるように佇む部室。
ガラガラと戸を開けると、どこか全体的にくすんだ色合いの部屋が目に飛び込んでくる。
物の少ない、空き部屋のような教室。
茶色い教室机の上に足を組んで座っている、誰かの後ろ姿が見えた。
とても高校生には思えないほど大人びた美人な先輩が、ギターを抱えながら振り返った。
窓越しに広がる、恥ずかしいほどに青い空を眺める。
私はゆっくりと唇を動かした。
「見学に、来ました」
美しく長い髪を揺らした先輩は途端に顔を上げ、口許に微笑みを浮かべた。
「誰もいない軽音部に、ようこそ」
ミステリアスな雰囲気を漂わせた先輩に戸惑いつつも、取り敢えずお辞儀をしてみる。
急にこの人は、何を言い出したのだろうか……。
え、この部活、誰もいないの?
軽音って、もっと人がいるイメージだけれど……。だって人がいないと、バンドとか組めないよね?
内気で自分の考えもろくに話せず、ただ漂うように生きていた中学生時代。
『青春』なんていう二文字は、私の中には存在しなかった。
でも、高校に入ったらーーー。
新しいことに挑戦することで、少し、少しだけでも、今までの自分を変えてみようと思っていたのに。
「珍しいね、新入部員!もちろん、軽音入るよねっ?」
期待に満ちた瞳を向けられ、少したじろぐ。
確かに、この部活に入るつもりではいたけれど。密かにずっと憧れだったギターを弾くため、軽音以外は考えていなかった。
でも、そんなに人が少ないのだったら……。
「でさ、今の部員なんだけど」
「あっ、はい」
「実は、私しかいないんだよね」
えっ?
先輩、ひとりだけ……?
嘘、そんなに部員がいないの?
「えっ……、そうなんですか……」
「廃部にもならないんだよ、もう見捨てられてるんじゃないかな」
ショックを受けていると、先輩が追い打ちをかけるように事実を述べる。
「そんなに、人気がないんですか……?」
確かにこの高校は田舎の中でもトップクラスの田舎に位置しているし、生徒数も百人に満たない小規模すぎる学校だ。数か月前第一志望に落ちた私は、仕方なく家から一番近いこの学校に通うことになってしまった。
哀しかったけれど、遣る瀬無かったけれど、軽音部があることだけを楽しみにこの学校に入学してきたのに。
「いやいや、言いたいことは分かるよ」
先輩は悪戯そうに笑った後、少し悲しそうに目を落した。
「都会の学校ではさ、軽音は人気なはずなんだけどねぇ。私の従兄弟の高校なんて、部員五十人ぐらいいるらしくて。でもさ、こんな小さな高校じゃ、軽音部なんて認知もされないんだよ。だって何もないし。この教室だって、部室って言ったってなの設備もないの。酷いよ、ほんと。ドラムもないし、エレキもシンセもない」
「あるのは古いキーボードと、よく分からない古ぼけた一台のアコギ。こんなのただの音楽室にも満たないもん」
先輩は、ため息交じりに早口で説明してくれた。
ちゃんとした楽器も揃ってないなんて、これは軽音部と言えるのだろうか……。
私は家にアコギがあるから、まぁどうにかなるのだろうけれど。
「そう、なんですね」
「ごめんね、ようこそなんて言って。私もう三年だから。受験もあるし、全然部活になんて来ないと思う」
冷ややかな声で、静かに先輩が言った。
「そう、ですか……」
息を吞み、俯いて考える。
じゃあ、私はどうしよう。誰もいないこの部活に入るか、違う部にするか。何にも入らないっていう選択肢もある。
そう思案しているのも束の間、先輩はカラッとした声で元気よく叫んだ。
「なーんてね!暇すぎて、私いつもここにいるから。ギターだったらいくらでも教えるし、いつでも来てよ」
「えっ、いいんですか⁉」
「確かに、映画の中のような青春はないかもしれない。でもさ、こんな自由に音楽を奏でられる放課後を過ごせる場所って、ここ以外ないもの」
先輩は目を細めてそう言うと、抱えていたギターを机に置いた。座っていた教室机から飛び降り、窓際へと足を踏み出す。
私は慌てて先輩を追いかけ、柔らかい日差しが降り注ぐ天色を眺めた。
澄んだ水色がどこまでも広がり、自分をどこか違う世界に連れて行ってくれそうな気分にさせてくれる。
小さく浮かぶ雲はささやかに、私たちを見下ろしてくれているようだ。
全ての人に平等にある、その時その一瞬の空の色。
心にこびりついた幾つもの汚れを、残らず洗われるような感覚。
「ね、綺麗でしょ?君の心みたいに」
「えっ」
急にそんなことを言われ、何と返していいのか分からなくなってしまう。
「ごめんねぇ、私曲も作っててさー。作詞したりするから、そういう脳になっちゃってて」
「あ、いや。すごい……」
思わず心の声が漏れてしまったところで、先輩は照れたようにクスリと笑った。
初対面だけれど、数分間話しただけで分かる。この人は本当に笑顔が絶えない人だ。
それはきっと私なんかよりも、もっとずっと綺麗な心を宿しているからだろう。
「ねぇ、見て。桜の木。もう葉桜だ、すっかり散っちゃったみたいだね」
先輩の指さす方に目を向けると、緑がかった桜の木が瞳に映る。
入学式の時でさえ花びらが少し散っていたし、季節の巡りを感じさせる眺めだ。
「この最上階から、空を見ながら演奏するのって、最高に気持ちいいんだよ」
春なのに、もう夏のような気温だった。
心が跳ねるのを感じ、スカートの裾を強く握る。
これは、気持ちが晴れやかになった時に私がしてしまう癖のようなものだ。
「でもよかったー!これで軽音の未来は安泰だよ」
「あ、そうだ。私ね、藤瀬いのりって言うんだ。君は?」
先輩が、白い歯を見せてニカッと笑った。思わず、私も笑みがこぼれる。
「あ、えと。水野、天音と言います」
「おぉ、あまね!めっちゃ綺麗な名前。いいねぇ~!」
「あ、いや、先輩の方が……」
いのり、なんて名前なかなかいないし、上品で美麗だと思うけれど。
「よろしくねぇぇ、あまね!」
「えっ、あ、あの」
こちらこそ、と口にしようと思ったのに、何故だか言葉が詰まってしまった。
「んん?」
青い空をバックに顔を傾ける先輩の、髪が肩にかかってさらさらと流れた。
美しい、と素直に思った。
何もないこの場所で、この教室で、私の日々は始まるんだと、何の根拠もなくそう思えた。
「よろしく、お願いします」
風が通り抜けていき、先輩が満面の笑みをこぼす。
それは私だけが知っている、どこまでも青い春の訪れだった。
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